●「いちかわ史発掘」を再刊

 1983年から1992年まで、市川ジャーナル紙に連載された歴史読み物の『いちかわ史発掘』。このほど、遅ればせながらホームページで再刊することになりました。情報としてはやや古い部類に入りますが、歴史的な考察や掘り起こしなどについては、未だ古くなってはいないと考えます。随時、追加掲載していきますので、関心がおありの方はお楽しみ下さい。(2010/05/18)


【161】下総国分寺の発掘(4) ふくれた瓦 2

 下総国分寺跡で、焼き損じの瓦が出土するという話の続きです。
 このふくれた瓦は常識的には、使用は不可だが、発掘の出土状態からすると、国分寺の創建に使われていたのである。
 なぜか。そのなぞを解く鍵は、瓦を作る人びとにあったようだ。
 下総国分寺跡で出土する瓦は、製作技法や軒先の文様が統一されているばかりか、瓦を焼いた場所も国分寺のそばにあった。どうも国分寺を造る役所の下に、瓦を作る人びとが編成されていた官営の作業場があったようなのである。
 当時、国分寺の瓦を作る体制は、官営の窯場と、在地の豪族が経営する民営の窯場で作るものがあった。
 他国の例も考えると、どうも民営の窯で作られる瓦は、国分寺を作る役所がうるさく製品検査をしたらしいのだが、官営はなれあいがあって、不良品を納めたようなのだ。
 こうして、ふくれた瓦は下総国分寺跡で出土することになる。

【了】


【160】荷風の散歩道(4)

 永井荷風が文化勲章を受章したのは、今から39年前の昭和27年だった。この第11回の受章者には、梅原龍三郎や朝永振一郎らがいた。
 文化勲章授章の知らせを菅野の自宅で聞いた荷風は、「受章されますか?」の新聞記者の問いに対して、「ハイハイいただきますよ」と答えたという。
 荷風のこの授章に際しては、作家の久保田万太郎の陰の尽力があったといわれているが、一説には、万太郎自身が受章したいがために、順序として先輩の荷風のために力を尽くしたという、が、さだかではない。
 荷風にとって文化勲章受章は、名誉というより、もっと実益的な理由があったようだ。それは、前年の受章者から年額50万円の年金が支給されるようになったからだ。昭和20年代のこの金額は大きい。
 毎年4月の初旬になると、荷風は市川郵便局にこの「文化年金」を受け取りに行き、その足で銀座や浅草へと出掛けた。
 昭和34年4月、死の床にあった荷風の枕元で、文化勲章には数センチのホコリが積もっていたという。


【159】幕末の徴兵令

 江戸時代を通じて、市川市域の大部分が徳川幕府の直轄領(代官支配)であったことはよく知られている。言い換えれば、幕府の政策が直ちに反映した地域であり、幕末にはそれが露骨に表われた。
 柏井の植草家文書に、慶応元年閏五月兵賦人足取調書上帳(市川市史第六巻史料近世上)というのがある。これは幕府が関東の直轄領の領民に対し、徴兵を命じたことへの、柏井村他近隣19カ村の返答である。
 この時期は関東近辺では、水戸浪士等のゲリラ的活動が横行し、西日本では長州藩を中心とする反幕府勢力の不穏な動きがあった。これらに対処するために、幕府は多くの兵を必要とした。直接的な理由としては、幕府の緒主力軍が長州に進発(第二次長州征伐)し、手薄になった江戸城下を守るために、領民の徴兵を命じたのである。
 兵の割当は、村高千石につき1人を宛て、御改革組合(幕府が治安維持のために数カ村を組み合わせ取締の強化を図ったもの)を単位として、それぞれの村の村高の合計により、兵の差し出す数が決められた。


【158】民具再見 鉋

 材木の表面を削って平らにする道具が鉋である。ただし、ひと言でかんなと言っても、その種類、形は実に様々である。
 船大工や宮大工、神輿などの製作に携わる職種では、特にバラエティに富んだ鉋がみられる。つまり曲線や細かい部分の細工が必要とされる仕事ゆえである。たとえば、外丸鉋、内丸鉋、溝鉋、際鉋、脇鉋、面取り鉋、極端に小さい豆鉋などいろいろだ。
 現在、鉋といえば木製の台に刃がはめこまれたもの、すなわち台鉋を思いうかべるが、この形が進歩、発達するのは桶の製作技術と深いかかわりがあった。液体を入れる木製容器として古代、中世には曲物が使われていたが、それよりも厚板を使用した桶は丈夫で深さのある液体容器として曲物の限界を超えるものがあった。桶作りにとって何よりも大切なのは水漏れしないように板をぴったりと合わせることであり、鉋なしではすまない。桶の出現は人々の生活に深い影響を及ぼすものであったが、鉋の発達があってはじめて可能になったのである。


【157】地方史研究と情報収集

 なぜ最近の人はそんなにいろいろな情報を必要としているのか、また本当に心から情報を欲しているのか、変な世である。
 情報は氾濫し、渦を巻き、やがてそれらが「渦の叛乱者」として、われわれに逆襲をかけてきている。当然のことである。
 知識は無限である。それが情報として吐き散らかされ、それらをなんでもかんでも食い散らかし、聞きもされないことまで自動的に話しまくるヒトのなんと多いことか。とくにこの頃の人に多くみられる社会的病状である。
 ところで地方史研究にとっての情報収集だが、本来、情報を収集するということはとても楽しいことであるはずだ。例えば、市川の旧国分村の歴史を研究しようとしたら、まず手元で集められる、地図やこれまでの蓄積資料を収集し、よく検討する。その上で今度は、地元の人からいろいろな話をお聞きし、自分の足でよく歩く。これは人間の思考のスピードであり、この中からいろいろな仮説をたてたり疑問が生まれ、それらを少しずつ解明してゆくのだ。地方史研究は、すればするほど疑問や問題が増加してゆく。何もしなければ、何でも分かった気で錯覚の一生を終える。勉強研究の息づかいの中で情報は集めればよい。


【156】赤土の眠る文化(3)

 細石刃(さいせきじん)とよばれる石器がある。完成品は、長さ3〜4センチ、幅約5ミリ、厚さ約1ミリ、重さ約1グラム程度の柳葉形をしている。とはいえ、時期や地域によって大きさや重さに若干の変異を生じているのが普通である。骨や木などで作ったヤリ先の両側辺に溝を彫り、そこに数本の細石刃をうめこんで、組合わせ式のヤリとして使用するのである。
 細石刃は、中国東北部からシベリア、北海道にかけての地域で最もよく発達しており、日本では先土器時代の終末ごろ、小形で単体のヤリをもった文化にやや遅れて普及している。比較的短期間に姿を消していること、前後に単体のヤリをもつ文化が見られること、シベリアに古い時期の細石刃があるらしいことなどから、細石刃をもつ文化は大陸の影響下で一時的に成立したようである。関東地方では、このあと縄文時代に入ると、細石刃にかわって、柄へのとりつけ方に工夫をこらした有茎(ゆうけい)尖頭器とよばれるヤリが出現している。
 市内では、考古博物館の北側にある権現原遺跡から細石刃をとるための石核(せっかく)や有茎尖頭器が発見されており、先土器時代終末から縄文時代初頭にかけての一時的な文化変容を知る上で貴重な資料を提供している。


【155】下総国分寺の発掘(3) ふくれた瓦 1

 8月末までの予定で下総国分僧寺の発掘を行っている。おりからの冷夏は、発掘にとってはありがたく、竪穴住居跡や掘立柱建物跡がみつかって成果も上々、本紙387号でお話した付属雑舎の一部と考えている。まあ、発掘の成果はまたの機会にゆずるとして、今回は、発掘で出土したおもしろい遺物を紹介しよう。
 それは“ふくれた瓦”である。見た目には軽石のような“すが入った”軽い瓦である。国分寺跡の調査では、奈良・平安時代の瓦が多く出土するが、そのなかに、ふくれた瓦もふくまれる。量は少しだが、僧寺跡、尼寺跡でまんべんなくみつかっていて、どうも屋根にふかれていたらしい。
 この変な瓦は、瓦をやくとき、あまりの高温のため粘土が膨張してできあがる、いわばできそこないの瓦である。下総国分寺の瓦は、粘土がそもそも悪いから、耐熱度も低く、ふくれた瓦ができやすかったのだろう。
 しかし、よくもこんな瓦をふいたものだと感心するが、これには下総国分寺をつくるにあたっての事情がいみじくも反映されている。紙数もつきたので、この事情は次の機会にお話しよう。どうぞ、お忘れなきように。


【154】かけがえのない文書

 私達人類と他の生物の違いは何かと問われたら、それは記録を残してきた事だと言えよう。記録といっても、木簡古文書・金石文・現在の文書類・光ディスク等様々である。人々は、それらの情報源を保存活用することによって、生き長らえ、今日の社会を築いてきた。
 しかしながら、現在我々が使用済みの文書類、特に公文書(行政文書)の多くは、廃棄されるかどこかに放置され深刻な状況下にある。
 明治時代初期頃までは、公文書類は名主等有力者を中心に、何とか守られてきた。ところが、明治新政府の本格的な地方統治が始まると、千葉県下でも、明治10年の3新法(郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則)制定により新たな行政の舞台ができて、公文書保存についても、明治19年の郡役所所務催促心得『千葉県史料近代篇郡制上』では、文書保存の年限を定め廃棄すべきことが謳われている。この時すでに、文書量が増大し、廃棄の方針が採られたのである。と同時に、人々の手の届かない所に、公文書は追いやられたのである。
 このような方針は、最近ようやく改められつつあるが、文書量はますます増大し、現在でもとりわけ市町村レベルでは、ほとんど改善されていない。この問題については、追い追い述べていきたい。


【153】さかいにある墓

 鎌ヶ谷市中沢にある日蓮宗の寺、万福寺には、平安時代から江戸時代までつづいた墓地があった。これは最近の発掘調査で明らかになったことだが、正確には、かつて墓地であったところに、万福寺が建てられた、というべきだろう。というのは平安時代にはもちろん日蓮宗はなかったからだ。
 この墓地跡に注目したいのは、ここが中世の荘園と荘園の境にあることである。中沢とはかつて中沢郷と呼ばれ、市川市の柏井を含む八幡荘内の一郷であったところの名に由来するものである。この先、鎌ヶ谷の北部、粟野・薩摩と呼ばれるところは、伊勢神宮の荘園である相馬御厨(みくりや)に含まれる。つまり中沢は相馬御厨と八幡荘との境にある墓地であったわけだ。ちなみに両荘園を分ける条件は明らかではないが、中沢郷の大柏川などの水系が東京湾に流れ込むのに比べ、相馬御厨の川は手賀沼に流れ込む、つまり分水嶺がその境になったというところが的を得ているようである。
 さて、この墓地は鎌倉後期のある時期から、日蓮宗の墓地になる。しかし面白いことに、どうも法華経寺などのように、八幡荘で成長した日蓮宗も、荘園の境を越えると伸びがにぶるようなのだ。これは興味深いことである。


【152】荷風の散歩道(3)

 永井荷風の遺品の中に一綴りの質屋の通帳がある。これには、荷風が昭和25年4月から30年までの5年間にわたって、背広やオーバーなどの衣類を質入れした記録が残っている。
 荷風が通った千代田質店は彼が市川で一番長く暮らした菅野の自宅と目と鼻の先にあった。下風は、春になると必要のなくなった冬物のオーバーや背広を質に入れ、質流れすることのないように定期的に利子の支払いをしながら、冬になる受け出すという生活を続けた。
 当時の荷風は勿論お金に困っていたわけではない。荷風にとっては、留守がちな家での盗難や虫くいなどの心配が億劫だったのである。昭和25年4月4日の日記には、「不在中盗難を慮り冬の外套二枚上着チョキ一枚づゝを門前の千代田質屋に預入る。」とある。このとき、計4点の衣類で2,500円を手にしている。しかし、何度も通いながらこの質屋が日記に登場するのは、あとにも先にもこの1日だけである。
 1人暮らしの荷風にとって、まして強盗などが横行した当時にあっては、質屋は物を預けるにはもっとも安全なところだったのだろう。
 こうした荷風の合理性は、保管を目的に毛皮や貴金属を質入れする現代人をはるかに先取りしている。


【151】民具再見 船大工の道具

 家を建てる「家大工」(やだいく)に対して、和船を造る大工は「船大工」と呼ばれる。
 木造の和船は今ではあまり見られなくなったが、その製造過程はまずシキと呼ぶ船底の板を盤木に固定することから始まる。そして前方に水押し(みおし)を、後方に戸立て(とたて)を付けたところでシキズエとなる。シキズエは家を建てるときの上棟式にあたるもので、大安か友引の日を選んで行われる。
 その後の行程は船の側面の板の取り付けや内側の造作などへすすむが、そうした作業の中では家大工とは異なるさまざまな技術が施されている。つまり船にとって重要なのは水が漏れないことで、板をはぎ合わせる技術は独特である。また走行しやすい形を造るために曲線部分は多いことも特殊な技術が要求されるゆえんである。
 そうした技術を支えるためにはさまざまな道具が使われる。ガガリ、アナヒキ、チュウメなどの鋸類、いろいろな大きさのツバノミ、釘締め、ヨトコ、用途に応じて使い分ける鉋類、角度を決める自由定規などある。釘は平たく頭の折れた船釘が使われている。
 プラスチック製のボートが登場して以来、船大工の仕事は衰退の一途をたどることになったが、和船造りの行程で培われてきた伝統的な技が消えてしまうのはいかにも惜しい。


【150】地方史と新郷土史への旅

 地方史という言葉は、戦前の郷土史に対する、一種の嫌悪感の意味合いを持たせながら使われてきた。ところが、戦後40年も越えれば地方史の意味するところの空洞化現象が目立ちはじめている。今度はそのため地方史に対して、地域史・住民史といった言葉もあらわれている。しかし、その二語ともあまり実態にそくしたものではなく、そのまますぐに色あせてゆくように見える。そんな情況であるから、「なになに史」なるものの意味内容をあらためて木目細かく、吟味しなくてはならないようだ。くりかえせば、戦後40年とはそういった時期なのだ。
 われわれの歴史はスパイラルな形状を持って時間を経過してゆく。しかし、それとても寸分たがわず以前と同じというわけではない。少しずつのズレ・縮退sながらすすんでいる。反動とのニュアンスを込めて受けとられなけない危惧の念を持ちはするが、あえて「新しい郷土史」・「ニュー郷土史家」への旅はないものかと考えはじめている。
 「地方史」への問い詰めの衰弱、旧来の郷土史家のプライオリティー無視=単なる勉強不足、人を見下すために郷土史をやっているやにもみえる新興郷土史家と称するヒトビトを見るにつけてである。


【149】赤土に眠る文化(2)

 坂道の切り通しや工事によって土が切り取られた崖の近くを歩いていると、黒い土の下に赤い層(関東ローム層)が厚く堆積しているのを見かけることがある。理化学的は年代測定によると、この黒土と赤土の境界の年代は、約1万年前とされ、おおむね縄文時代とそれ以前の先土器時代を区分する地質上の境界線でもある。
 黒土の中から、縄文時代以降の考古資料が出土することは、古くから知られていたが、赤土の中から考古資料が発見されるようになったのは、昭和24年に群馬県岩宿遺跡が発掘されてからのことである。岩宿遺跡に通いつめていた考古学者の相沢忠洋氏は、赤土に突き刺さっていたヤリの先を手にして、赤土に眠る旧石器時代(先土器時代)文科の存在を確信したという。ヤリは、先土器時代の終わり頃に盛行し、弓矢が発達する縄文時代にも引き継いで使われていた道具である。
 先土器時代に属するヤリは、市川市内での大野町4丁目にある殿台遺跡から3点ほど発見されている。これらは、長さ10センチ前後の大きさで、赤土の最上層に含まれていたという。わずかな資料ではあるが、野山を駆け巡っていた先土器時代の狩人たちが、ここ市川の地にもいたことを私たちに教えてくれる貴重な資料である。(つづく)


【148】下総国分寺の発掘(2)

 国分寺には、僧尼が仏教活動をおこなう伽藍地(がらんち)と寺の庶務的な業務をおこなう雑舎(ざっしゃ)域があり、雑舎域の重要性については前回ふれた。
 だが、寺の中心は、伽藍地にあることはいなめない。昭和40、41年の発掘調査の結果、僧寺跡では、金堂跡と塔跡が東西にならび、講堂跡と塔跡の中間の北側に位置することがわかった。この配置は、奈良県の法隆寺と同じなので、法隆寺式伽藍配置という。国分寺が建てられた奈良時代中ごろは、塔は金堂の前方か、ややはなれて建てられる例が多く、全国でもこの伽藍配置はめずらしい。
 なぜこのような配置となったかは、下総国の場合、国分寺の占地と関係するかもしれない。国分寺の建立は、朱色の堂塔を見せつけることによって、国家の威信を高める効果があったと先に書いたが、この見方にたてば、国分寺はめだつ場所に造るべきだし、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)には、「よき処を選べ」との一文もある。下総国分寺は、国分台の先端に僧寺・尼寺が建てられて、威圧的な視角効果は抜群だったであろうし、さらに金堂と塔を並べれば、その効果は一段とあがったと考えるのはうがちすぎだろうか。


【147】明治維新期の外米輸入

 現在、我が国では米の自由化問題について、政府をはじめ各界各層で議論されている。
 明治維新期においては、現在と様相は違い、当時は凶作の連続で、諸物の値が高騰し続け、とりわけ、米穀の値は踊るように高騰したという有様であった。この打開策の一環として、幕府は、慶応2年11月18日に外国米の輸入販売を許可した。米不足の解消、米価高騰の鎮静を図るものであった。
 米輸入政策は明治維新政府になってからも続けられた。特に、明治3年は、近年にない大量の外米輸入があった。また、当時、日本全国の貿易額の7割を占めた横浜では主要輸入品額の四割5分(約1063万7000ドル)を占めた。
 この背景には、明治2年の全国的な天候不順による大凶作があり、東北地方や都市部では飢餓的状態であった。
 市川市域においても、明治3年の稲荷木村の御用留(『市川市史』第七巻)にあるように、当時管轄の小菅県役所に対し、地域の触元、総代名主を通して、外米(支那米つまり南京米)の拝借を致し、各村に石高に応じ、割り渡しした。このようなことから、人々の困窮ぶりが窺える。と同時に、これは不徹底ながらも、維新政府の救恤(きゅうじゅつ)政策でもあった。外米輸入が多くの人々を救ったことは確かであろう。


【146】曽谷殿、京へゆく

 「都には良きものが花のように咲いておりまする」という山伏にしてはハンサムな日野俊基に誘われて、京都に繰りだすのは真田・足利高氏。NHKドラマ「太平記」のひとこまだ。
 その高氏が活躍する南北朝の時代、市川の田舎さむらいが京に「上洛」をとげた。その名は曽谷氏。この事実、ほとんど知られていない。
 この曽谷氏はいうまでもなく今の曽谷の出身の武士で、というより、今の曽谷がこの武士の領地であった、とするほうが正確だ。
 この曽谷氏、鎌倉時代は下総の守護千葉氏の家来として、かつ日蓮のパトロンとして羽振りをきかす程の教養と実力を備えた家であったのが、なぜかこの時期、家が傾きかげんであったようだ。おそらく仕える千葉家の分裂によるか、はたまた鎌倉幕府の滅亡が原因か、とにかく自力で時代を切り抜けねばならなくなったようである。
 かつての彼の同輩富木常忍が建てた法華経寺は、日祐という傑僧の奮起で多古氏を頼りにしのいでいるが、そのせいかどうも曽谷氏の影は薄くなるばかり。そんな折も折り、平賀本土寺が曽谷氏の外護を求めてきた。しかもその法系を頼りにすれば、京都の幕府とコネクトできるかもしれぬ。そんな思惑の今度の上洛であった。


【145】荷風の散歩道(2)

 2度の離婚を経験した荷風には、「この女こそわがために死水を取ってくれるもの」と思っていた女性がいた。
 この女性は関根歌といい、昭和2年に芸妓をしていたところを荷風によって身受けされ、待合を任されるなどして、荷風とは約5年の付き合いがあった。所帯持ちのいい、「食べ物をこさえるのがじょうず」な女性であったために、荷風のお気に入りだったが、荷風の浮気が原因で別れてしまった。
 この2人の再会が、昭和30年12月、菅野の荷風の自宅で実現した。荷風は石川県七尾から上京するという歌の手紙に対して木目細かな次のような返事を出している。「お手紙拝見しました。赤いシャツありがとう御在ます。電車は国鉄が便利です。京成電車は人力車も自動車もありませんから国鉄本八幡駅が便利です。人力も自動車も拙宅まで百円です。本八幡駅は千葉行きで市川の一ツ先の駅です。十二時前後になればきっと家に居ります。本八幡駅から家まで歩いて二三十分かかります。おめにかかったらいろいろお話いたします。」
 十二月二十日、二十数年を経て再会した2人にはどのような会話が交わされたのだろうか。日記には、「午後関根歌石川県七尾より上京中来り話す。一時間ばかりにて去る」とだけ記されている。


【144】民具再見 飛行機包丁

 2枚あるいは3枚の刃を平行にして、その中央に刃と直角に柄を付けた包丁は、その形の故か“飛行機包丁”と呼ばれた。今のように海苔すきが機械化される以前に、海苔を刻むのに用いた用具である。飛行機包丁を使うときのたたき台は、1メートル程の太さの木をただ輪切りにしたようなもので、これがつまり俎である。
 海苔養殖をしている家の朝は早い。11月から翌年の3月頃までは海苔すきの最盛期なので、寒い冬の早朝から海に出て海苔採りが行われる。採ってきた海苔は細かく刻まれ、海苔簀の上に1枚ずつすかれて干される。その細かく刻む段階で飛行機包丁が登場したわけである。刃を2枚、3枚と連ねて飛行機の如き形になったのは、手早く効率よく刻むための工夫の結果であろう。その工夫はさらに延長されて、現在の海苔すきの機械化は著しい。吸引機を使って採取してきた海苔は機械に入れられると、出てきたときには乾燥して10枚ずつの束になっているのである。刻むのもすくのも乾燥も、すべて機械が自動的に行う。人は出てきた海苔の束を出荷用の箱に入れるだけである。そんな作業の合間に、飛行機包丁の時代には子供も暗いうちに起こされて井戸水汲みをするのがつらかったもの、と昔話が聞かれた。


【143】近世の奉免村

 ほうめ(ほうめん)村。市川市の北に位置し、周囲を大野、柏井、北方の大村3カ村に囲まれた村である。どちらかといえば取り囲まれているといった感じである。
 村で米をつくる力は村の力、これを村高というが、元禄期で52石余、天保期で62石余、幕末期でも62石余と天保期と変わらずになっている。市内でも小さなクラスに入る村の規模となっている。
 奉免とは珍しい呼称に思えるが、そうではなく、けっこうあちこちにある地名である。寺社などに寄進された土地をさしている(『地名用語辞典』)。奉免とは、語源的に寄進の意味である。
 『東葛郡誌』によると、この村の由来は「後深草院の媛宮、故ありてこの地に漂着せしとき(当時はこの辺は磯辺なりしと)北条時頼の媛宮のために、土地の年貢諸公役を免し、奉りしより奉免の名ありと」と記述され、年貢諸役を免じられたために名付けられた村名であるとされている。
 奉免には安楽寺という日蓮宗の寺があり、ふたたび『東葛郡誌』によると、「開山は大礼尼日国上人(後深草院の姫宮)法華宗最初の尼寺なり」とあり、奉免山安楽寺という。詳しくは同書「安楽寺由来記」を参照されたい。


【142】赤土に眠る文化(1)

 都市化の波は、単に人口の増加をもたらすだけでなく、ざまざまな土地開発を伴いながら、急速に広がりつつある。東京に近い市川の地も例外ではなく、早くから開発が行われてきた。
 昭和29年4月、松戸市との境界に近い国府台4丁目3559番地先で、土取り工事が行われ、2基の古墳が破壊の危機に瀕していた。市川市教育委員会から調査の依頼をうけた明治大学考古学研究室は、翌5月4日から6日にかけて、辛うじて残った1基の古墳(丸山古墳)の発掘調査を実施した。調査の結果、古墳の性格こそ明らかにすることができなかったものの、発掘区域内の赤土(関東ローム層)の中から、予想に反して1万年以上前の先土器時代の石器群が発見されるに至った。石器は、径3メートルの範囲内で40点出土し、その南側に長径約20センチほどの礫(れき)がまとまって8点出土した。
 石器の大半は、剥片・破片(製品を造る前段階の破片)とそれを剥ぎとった石核(せっかく)で占められていたが、ナイフのような形をした特徴的な石器が1点見つかっている。
 丸山遺跡と名付けられた本遺跡は、その後まもなく消滅したが、千葉県内で最初に調査・報告された先土器時代の遺跡として、研究史の1ページを飾っている。(つづく)


【141】下総国分寺跡の発掘(1)

 下総国分寺の研究にとって、発掘は欠かせない調査方法である。なにせ、下総国分寺について、いちいち記録してある文献なんか残っていないのだから、考古学の成果は貴重である。
 国分寺は、僧寺と尼寺の2つの寺がセットであったが、そもそも昭和七年の発掘で僧寺と尼寺の位置を決める結果となった。いわば、下総国分寺の研究元年といえるだろう。
 その後、発掘に大きな進展はなかったが、昭和40年〜42年に市川市史を作るにあたって発掘が行われ、僧寺の金堂、講堂、塔の跡、尼寺の金堂、講堂の跡が確認された。金堂は本尊が置かれた本堂、講堂は僧尼が法会(ほうえ=仏教の儀式)を行った所。塔は七重塔(尼寺には置かれなかった)のことで、寺の中心の建物である。これら中心の、仏教にかかわる空間を伽藍地(がらんち)と呼んでいる。
 また、寺には伽藍地以外に様々な役割をもつ建物(雑舎=ざっしゃ)や空間があり、伽藍地にこれらの空間をふくめた寺の敷地全体を寺院地と呼ぶ。
 寺の活動を支えたのは、伽藍地の外の庶務的な仕事をおこなった雑舎であり、寺院地とおなじく、雑舎の解明も国分寺の研究には欠くことのできないことである。


【140】小菅県誕生

 明治2年1月13日に、明治新政府により小菅県が設置された。その管轄範囲は、現在の東京・埼玉・千葉の1都2県に渡り、355町村に及んだ。当時の市川市域の大部分(東部地域・藩領を除く33町村)はこれに含まれていた。
 この地域は、江戸時代以降、徳川幕府の直轄地であり、代官が支配していた。その後、新政府の統治下に入ってからも、しばらくは旧代官に統治させていたが、県の設置と同時に宮津藩士河瀬秀治を県令に任命した。河瀬は、社会福祉事業的な報恩社法・全国初の公立学校となった小菅県立仮小学校の設立・県内の行政区分等いずれも地方行政の先がけとしての近代化諸政策を行った。小菅県内の市川市域は、幕領だったゆえに新政府の近代的な体制下に草々に組み込まれていったのである。
 しかしながら、実際は物情不安定な状況であり、村落の仕組みは旧幕府の関東取締出役設置時の寄場組合体制が維持されていた。それは、当時の村々に残された御用留等から窺える。県庁と村々との意志伝達も旧来通りであった。
 かくして小菅県は、明治4年11月14日の廃藩置県により廃止になった。僅かな期間ながらこの時期は、市川市域の近代化への転換期と位置付けられよう。


【139】文書袋

 今年は台風が日本を襲う場合が例年になく多い。読者諸賢の家にも、重要書類や非常食を入れた携帯用の袋があるのではなかろうか。これは少なくとも中世にまでさかのぼる。
 中世法華経寺の文書を眺めていたら、面白いものがその宝蔵に所蔵されていた。「文書袋」である。当時は南北朝時代という戦乱の世、いつ何があるともわからない時代である。事実、鎌倉あたりの寺院には「大袋」なるふざけた名前の強盗が、すべてをカッパラッてゆくような有様。下総の地とて同様だった。
 普段の法華経寺では、寺の宝である日蓮様の真筆をはじめとする聖教類はつづらに入れて保存されtいた。文書を入れる「文書ツヅラ」もその中にあった。するとこの文書袋は、非常時の携帯用のものではなかったか。
 『平家物語』「あしずりの事」を繙(ひもとく)と、例の俊寛を島迎えにゆく御使いが、清盛の「ゆるし文」を入れた「布ぶくろ」を下僕の首に掛けさせていた。文書を袋に入れた場合、多くは携帯用のためだったのである。
 当時の法華経寺では、戦乱をさけて、多くの宝を有力な周辺の信徒や寺院に預けていた。これも中世独特のモノ保存の習俗である。文書も“預けられる”準備のため、袋に入れられていたのだった。


【138】荷風ノ散歩道 その1

 荷風には、子供の頃からの奇癖があった。荷風いわく、「事に会えば忽ち再発するらしい」。癖とは、道を歩きながら不意に小さな川に出会うと、その源や行き先を突き止めたくなるのだという。60歳を過ぎて市川に移り住んでもなおこの癖は止まなかった。地図を見れば済みそうなことではあるが、地図からでは回りの風景は見えてこない。
 荷風は真間川の流れを追った。この川がどこを流れ、どこに至るのか、その川筋を見極めようとした。70歳に手がとどく人とは思えない健脚さで、真間川の流れを追い、街や人の様子を見て歩いた。
 原木の妙行寺を知ったのもこの時であった。この際のことは、昭和22年11月30日の荷風の日記『断腸亭日乗第三十一巻』に詳しく記されている。またこの時の見聞きは、作品「真間川の記」(「展望」昭和25年1月)を生んだ。この作品を小林秀雄は、「――ああいふ文章は誰にも書けぬ。あの文でもよくわかる様に、永井氏の文章は、観察といふ筋金が入っている処が、非常な魅力である様に思はれる」と評した。
 荷風が見た真間川の姿は今はない。川は高い堤防とフェンスに囲まれ、私たちの生活からは遠く離れた存在になってしまった。


【137】渡し舟

 歌謡曲の流行も手伝って「矢切りの渡し」は今も健在である。しかし、今遺る渡し舟は観光的要素が極めて濃く、かつてそれが生活の足として江戸川筋の随所に見られた交通手段であったことは忘れられようとしている。
 市川と対岸の江戸川区とを結ぶ渡しは、江戸時代から有名であった市川の渡しのほかに明治になってからいくつか開設されている。『市川市史』によると「本行徳と篠崎村(現在の江戸川区東篠崎町)を結ぶ三太の渡しが明治12年1月6日に認可され、湊村より前野村(江戸川区前野村)を結ぶ湊の渡しが同8年ごろから、また欠真間より当代島(江戸川区江戸川町2丁目)に達する薪屋の渡しが同じく8年ごろから、市川市国府台と小岩田村(江戸川区小岩8丁目)を結ぶ栗市の渡しが同25、6年ごろからそれぞれ開かれている」。
 これらの渡しで使われた船は、木造の和船であった。河原と篠崎を行き来した船は、巾が1メートル60センチ、長さ8メートル程で、船頭のほかに12人くらいが乗れたという。そして、ここは矢切りの渡しなどに比べて波が荒いので、側面に矢切りを施した船を用いていた。一言で渡し舟といっても、それぞれの地で川の流れを勘案した構造の船が使われていたのである。


【136】近世の二俣村

 ふたまた村の村高は、元禄時代45石余、文化文政時代43石余(『葛飾誌略』)、天保時代82石余、幕末・明治時代94石余と増加している。
 地字名を見ると、海から陸に向かって新浜、元浜、東場、未西浜、西浜、中場、本場、七割、下場、日枝前、新堀下、道付、上勘坊、藤葉(ただし、原木藤葉分もあり)。この中で、地字名に浜や場がつくものはかつての塩田であったと思われる。また日枝前は、日枝神社(ひえじんじゃ)の位置した現在の二俣2丁目1番10号である。
 この神社の祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)、例祭日10月9日、氏子100戸(『千葉県神社名鑑』1987年)といわれている。
 寺院はどうかといえば、『葛飾誌略』には、福泉寺が記載されている。この寺は札所第2番目観音安置、「昔は本行徳金剛院に有りしを此寺へ移す」といった寺である。また『旧高旧領取調帳』には除地(じょち)記載があり、年貢の免除された土地を持っていることがわかる。
 しかし、『千葉県東葛飾郡誌』(1923年)を繰ってみても見当たらないのである。稲荷木村に福王寺(真言宗)なる寺があっても、福泉寺は見当たらないのである。


【135】黒曜石

 黒曜石と書いて「こうようせき」と読む。高温高圧の溶岩が火山活動によって地表面に噴出し、急激に冷却してできる天然のガラスのことである。黒光りした表面の光沢と質感に魅せられる人も多い。
 国内に40カ所以上の原産地が知られており、北海道の十勝地方、長野県和田峠、大分県姫島、熊本県阿蘇山などが有名である。十勝地方の黒曜石は俗に十勝石(とかちいし)とも呼ばれている。関東地方の周辺では箱根と神津島の2カ所に大きな産地がある。
 限られた地域でしか産出しないはずの黒曜石が、なぜか、原産地から最短でも100キロメートル近く離れた市川の地でたびたび発見される。多くは先土器時代あるいは縄文時代に石器の材料として持ち込まれたものである。
 黒曜石製の石器としてよく知られているものに、縄文時代に弓矢の先につけた石鏃(矢じり)がある。
 柏井1丁目にある今島田貝塚からは、28点の石鏃が発見されているが、うち16点が黒曜石製であった。これらの製品または材料は交易によってもたらされたものである。黒曜石を仲介とした人々との交流を考えるとき、太古へのロマンは尽きるところがない。


【134】宝相華文

 「ほうそうげもん」と読む。1400年前ごろ、随・唐の頃の中国で考えられた文様で、日本でも奈良時代を中心に流行した。宝相華とはイバラ科ボタンバラのことだが、宝相華文は、ボタンバラの形象ではなく、当時の中国にあった様々な文様から考えられたものである。
 当時の中国はシルクロードで知られるように、西域からも文物がもたらされ、それらに伴う文様が宝相華文のもとになった。当時の中国は、東アジア随一の大国で、その文化は周辺の国々にも伝わったり、日本へも宝相華文が伝わった。現在正倉院宝物や東大寺法華堂の仏像などに当時の宝相華文を見ることができる。
 実は、奈良時代の宝相華文を市川でも見ることができるのである。国分寺を建てるとき、屋根瓦の文様に宝相華文が採用されたからである。当時の屋根瓦の飾りには、蓮華や唐草の文様が一般的であったが、下総国分寺には全国でも珍しく、宝相華文が用いられた。奈良に遺るものにひけをとらない流麗なものである。なぜ、当時の一地方に過ぎない下総の国分寺に最先端の文様が採用されたか、大きなナゾであるが、市川市もシルクロードのよすがが遺ることは、何か壮大な気分すら起こる。


【133】壬申戸籍

 明治4年4月4日の太政官布告により、戸籍法が公布された。これに基づき、府藩県一般には、翌5年2月より戸籍の編成が行われた。いわゆる壬申戸籍である。
 当時の市川市域は印旛県管轄であり、戸籍編成のため各地域を区に分け、区毎に戸長、副戸長を置き、区内の戸数、人員、生死、出入などを調査編成した。この戸籍は、それ以前の人別帳や士族籍などのように社会的身分別にしたのとは異なり、臣民一般を四民平等の立場から、その居住地において収録した。そして、市川市域に残っている大野村御門迎米の壬申戸籍控にもあるように、家(戸)を単位とし、戸主を定め、戸主及びこれと一家を構成する家族で編成された。家を通して人民を把握しようとした明治政府の徹底化が窺える。
 さらに、明治五年の稲荷木村の人口集計表には、人口集計のほかに、神官及びその家族の人数とその内の男女数が記載され、次に、平民の数が同じように記載されている。これは、肩書による職分表であり、族称記載による人数の集計だといえる。それゆえ、この戸籍の性格は、近代化においてもタテ社会の存在を認め、明治政府の中央集権的統治を行うための基礎作りであったといえよう。


【132】本朝異端審問

 何千人もの魔女を火あぶりにした悪名高い異端審問官・ベルナール・ギィは、映画「薔薇の名前」で百姓に串刺しにされ殺されるが、実際は天寿を全うし『異端審問提要』なる魔女探しの手引きを残している。
 およそ異端審問記録の類いは好奇の目でしか見られないが、実はキリスト教の教理からはあふれでてしまう、中世の古民俗の豊穣な海である(カルロ・ギンズブルグ『夜の合戦』=みすず書房)。魔女をなめたらいかんのである。
 ところで、我が中世の市川が生んだ傑僧・日親の書『折伏正義抄』は、日本の『・・提要』と呼びたい魅力を秘めている。日親の言う。「正統な法華経信仰から逸脱する弥陀・観音を辻々の堂で拝み、あまつさえ米・銭を供えるなどもってのほかである」と。
 日親が除けても除けても、いつのまには堂は「謗法」(つまりは異端)の神仏お拝む民の堂に戻ってしまうのである。特にそれが、米・銭を供えるという「霊場」であることは、悟りを開いた偉人が担う正統な「教え」とは裏腹に、人々のはかない願いに根ざした、もっとも奥深い信仰のありかを物語っていよう。
 筆者は今、房総の「霊場」探しとそのナゾ解きに熱中している。


【131】荷風と露伴

 昭和22年7月20日、幸田露伴が菅野の地で死去した。
 同じ頃、菅野の小西茂也宅に間借していた永井荷風は日記に『八月初ニ。晴。午後二時露伴先生告別式。小西小瀧の二氏と共に行く。但し余は礼服なきを以て式場に入らず門外に佇立してあたりの光景を看るのみ。』と記している。鴎外と露伴を生涯の師としていた荷風であったが、同じ菅野の目と鼻の先に住みながら、2人は出会うことがなかった。
 一方、告別式に同行した小西茂也氏は、荷風の様子を次のように記している。『八月二日。中央公論小瀧氏らと共に近くの露伴の葬式を揃って見に行く。先生例の下駄ばきに買物籠を下げてなり。炎暑焼くが如し。遠くから葬式を見、さすがに露伴は老人ゆえ女の会葬者少なしと申さる。その足で八幡の闇市へ行く。』
 荷風の日記だけを見ていると、師と仰ぐ露伴の死に対して礼服を持たずがゆえに遠くから静かに見守ったように受け取れるが、実際は、小西茂也の観察のままだったのだろう。
 しかし、晩年の日記にしばしば、『――露伴先生の――を読む。』と記されているように、今も八幡の永井宅に残されている露伴全集には、荷風の読み込んだ跡が残されている。


【130】民具再見 馬頭観世音像

 市内を歩くと、共同墓地の傍らや道端などに並び立つ馬頭観世音の像を見付けることがある。
 多くは高さ50センチから80センチくらいの駒型の石造物で、馬頭観世音という文字が刻まれている。馬の姿や顔を浮き彫りにしてあるものもある。刻まれている年号を見ると、江戸時代のものから明治、大正、昭和へと続いている。
 かつて馬は荷物の運搬等になくてはならない存在であり、市内で馬を飼う家は多かった。飼っている馬を亡くしたとき、飼い主はそれを葬り、供養のために石造物を建てたのである。したがって今馬頭観世音が建てられているところが馬を葬った場所であることが多い。馬捨場とかソーマンドとか呼ばれた場所だ。
 仏教で言うそもそもの馬頭観世音は大力持明王・馬頭明王・馬頭金剛明王などとも呼ばれ、忿怒の形相に造像されるものであった。それが牛馬の守り神として信仰され、時代が下がるにしたがって特定の死馬の供養のために、墓標的な意味で建立されるようになったのである。牛馬に関係ある職業の人々が観音講などを組織して建立している場合もある。
 現在の日常生活の中に馬の姿はない。馬頭観音ももはや過去のものかと思いきや、今は交通安全の守り神として観音講の人々はまつっている。


【129】近世の新井村(2)

 読者の方が図書館に行けばたやすく読める『房総叢書』という本があり、このうちの第六巻に「葛飾誌略」という書が収録されている。
 これは今からちょうど170年前の江戸時代・文化7年(1810)に書かれたといわれ、著者は行徳在住の村役人で名主(なぬし)を勤めたひとではなかろうかといわれている。内容は当時の村々を見聞し、それを書き集めたもので、行徳および船橋の記事が中心になっている。
 新井村については既に本紙で取り上げているが、村高は元禄時代に103石余、天保時代に291石余であった。この「葛飾誌略」kら新井村を見ると、この本の文化年間は元禄と天保の両年代の間で、この時期の村高が158石余だから、新井村の村高は一挙に増えたということではなく、年を追うごとに村の耕地を増加させていったということがわかる。このほかに塩浜高9町5反4歩、家の戸数は80戸くらいであったことがわかる。
 またこの書では寺社のことに詳しく触れている。熊野社、これは村の鎮守の役割を果たしていた。寺院は栗原法成寺末の新井寺が元和2年(1616)の建立、行徳札所観音27番。真言宗小岩末寺の延命寺が慶長元年(1596)の建立、行徳札所観音28番となっている。


【128】今昔せいくらべ

 朝夕のラッシュ時、電車やバスに乗っていると、時折手摺に頭をぶつけて往生する若者を見かけることがある。
 若年層の平均身長は明治時代以降、わずかずつではあるが、増加の傾向にあるようだ。このことは文部省による生体計測資料を見ても明らかだ。
 これによると、明治33年に男性160.9センチ、女性147.9センチであった平均身長は、昭和45年では男性166.8センチ、女性156.5センチに推移している。ほぼ70年間に男性で5.9センチ、女性が8.6センチも伸びている。
 それでは明治時代以前の人々の身長はどうであろうか。平本嘉助氏が、遺跡から出土した人骨の計測値をもとに調べた平均身長の推定によると、江戸時代前半は男子155.1センチ、女子は143.0センチ、室町時代は男子156.8センチ、女子は144.9センチ、さらに南関東地方の縄文時代後半は男子157.7センチ、女子は149.2センチである。データをまとめた平本氏は「縄文時代人から弥生時代ないし古墳時代人へと身長が増加し、それ以降明治時代にかけて減少し、また現代に向けて増加する」と推定している。
 市川市にも姥山貝塚をはじめ、古人骨を出土する遺跡が多く残されている。将来これらの古人骨を調べることによって、市川の先住者の身長も明らかにされるであろう。


【127】国分寺建立

 奈良時代、市川に下総国分寺が建てられた。国分寺は、仏教によって国を守ろうとした聖武天皇の命令で、僧寺と尼寺の2つの寺があった。
 いまでこそ寺は珍しくないが、1300年前、草ぶきの竪穴住居に住んでいた人々にはどう映ったのであろうか。
 瓦ぶきで立派な柱を持った堂、10階建ビルより高い七重の塔、そのどれもが朱色に塗られていたのである。「青丹よし寧楽(なら)の都は……」と歌われた青は瓦の色、丹(赤)は柱の色だが、何だか華やかな都のイメージが浮かぶ。
 当時、都の人から「鳥が鳴く」言葉をしゃべるとされた東国の人々には、珍しく思えたのであろう。いや、何だか得体の知れない、おそろしいものと見えたといっても言い過ぎでないであろう。
 当時の宗教は、卑弥呼の時代の「鬼道をよくし、衆を惑わす」といった状況とさほど変わらず、仏教も呪術の一種とみなしていた。『宗教は麻薬』といった人がいるが、『人の精神生活を左右することは人の上に立つ条件の一つ』という人もいる。
 国分寺建立も、国家が得体の知れない呪力を持っていることを見せつけるため、と考えるのは、うがち過ぎであろうか。


【126】明治5年の改暦

 私たちの日常生活において、暦はなくてはならないものであり、何の不都合もなく使用している。
 現在、使用されている太陽暦(グレゴリウス暦)が我が国で正式に使われ出したのは、旧暦明治5年12月3日を新暦明治6年1月1日とした時からである。
 「明治五年十一月九日に太政官達として、改暦の詔書と太政官布告が発表された」。当時の稲荷木村には、布告による改暦の御触書(双輪寺文書)が、河瀬秀治印旛県令から達せられている。これらによると、これまで使用してきた旧暦(太陰太陽暦・天保暦)は、特に、季節の狂いを修正するための閏月を作り出す二十四節気の決め方が複雑であった。時刻にしても、不定時法という1日を昼間と夜間に分け、それぞれ6等分していたので、季節により長さも変わり、見当のつかないものであった。その点、太陽暦は、毎月の日数閏年など約束事として決まっている。
 かくして、改暦はなされたのであるけれど、突然の発布であり、長年、旧暦に慣れ親しんだ人々の間には、戸惑いがあり、なかなか浸透しなかったようである。当時の新聞記事には、改暦への批判的な報道が載せられている。
 今日においても、旧暦の存在を抜きに、生活することは出来ないといえよう。


【125】春来る鬼

 「暦は人が作り、天候は神が創る」
 西洋の古いこの諺は、遠く海を隔てたこの島国にも、不思議に当てはまる。
 1年の労働の疲れを癒し来たるべき冬にそなえるセント・マルティンの祭りは、日本の霜月三夜の弘法さまにつながり、春の訪れを告げる鬼やらい(節分会)によく似た祭りは、美しい響きをもつマリア光のミサとなる。宗教の土壌は違っても、歳月に死と再生のドラマを見る思いは変わらない。
 法華経寺の節分会は、2月の立春の日、吹き荒ぶ寒風にほのかな味がまざる頃である。祖師堂で力士や俳優による祈祷を行ったあと、祖師堂周辺に設けられた桟敷の上から豆をまく。この日は昨年の11月からはじまった百ヶ日の荒行の満願を目前にひかえたころ。その修行僧による加持をうけることが出来るというので、法華経寺の年中行事のなかでも特に参詣客が多いので有名だ。
 この行事が法華経寺でいつ頃始まったのかはもちろんわからない。ただ一般の中世寺院では、この行事が多く取り入れられ、重要なものとなっている。「鬼の時代」といわれる中世に、春来る鬼は出現したとしても何ら不思議ではないだろう。


【124】『断腸亭日乗』考

 『断腸亭日乗』は、作家永井荷風の日記である。これは大正6年9月16日、荷風39歳の時に起筆、昭和34年4月29日の死の前日まで、42年間書き続けられたものである。
 個人の日記でありながら、読まれることを意識して書かれた文学作品としても評価が高い。
 荷風が市川に移り住んだのは、昭和21年1月、前年3月にそれまでくらしていた麻布の偏奇館が炎上し、岡山、熱海へと点々と疎開した後のことである。
 戦後の日記については、文学的評価が低いが、当時の市川を知るうえでは、貴重な記録である。
 荷風は散歩を好んだが、散歩に出掛ける際にも常に手帖を持ち歩き、気がついたことを文字や絵にして書き止めていた。その内容は、自然や風俗、人物から当時の物価にまでおよんだ。荷風はその手帖を見ながら内容を推敲し、あらためて日記に清書した。大岡昇平は、荷風の日記を文学的評価はともかくとして詳細な記述が、自分が作品を書く際に非常に便利であると評している。
 『断腸亭日乗』を手に市川市内を散歩するのも一考かと思う。戦後45年の変化を自らの手帖に書き止めながらである。


【123】民具再見 手暖め

 正式の名称があるのかどうか、“蓮根掘りの手暖め”に使われてきた道具である。
 幅3センチ、奥行が23センチ、高さが45センチ程の木箱で、上の真ん中には持ち手が付いている。その持ち手で区切られた片側には金属製の煙突がはめ込められていて、ここに炭などを入れて箱の中の水(湯)を暖めるようになっている。
 蓮根掘りは秋から冬にかけての時期が最盛期である。特に正月をひかえて需要が伸び、値も良くなるわけだが、寒い季節の蓮田での作業はつらい。深い蓮田の冷たい水の中で手さぐりで蓮根を掘り出すわけである。そんなとき、しばし手を暖めるのに手暖め称する道具が使われた。木箱の湯の中へ手を入れて暖をとるのである。
 市の農水産課で毎年発行されている『市川市農林水産業の概要』に中の農業生産地分布地を見ると、昭和43年頃までは地下鉄東西線(昭和44年開通)の南側に当たる地帯一帯に蓮田が広がっている。それが昭和44年頃を境として大きく減少し、特に減少の波は南部から北部へと進んできている。かつての蓮田の上には家々が立ち並び新しい街をつくり出している。
 “手暖め”は、市内で蓮栽培が盛んに行われた時代があったことを示す証でもある。


【122】近世の新井村

 あらい村は、元禄時代103石余、天保時代191石余、明治初年代310石余、と村高を順調に増大させつづけたところであり、特に元禄から天保にかけては188石を増やしている。
 こうした新井村とはどのような村だったか。当村は旧江戸川から海にむかって細長い形をしていた。江戸川から海にむかって地字名を列挙すると、島尻(ひとつのまとまりのある地域であるが、江戸時代の村としては存立していない)、内島尻、外島尻、北出口、内田、立脇、西屋敷、東屋敷(この地字あたりが集落があったところのようだ)、蟹田通、寺後、潮田通、塩浜新田、堤外通、北浜、南場、欠真間村境、中江川添、西浜、東海面、辰巳角、墾之根、と20の地字から成り立っている。
 ほかに当村には現在の浦安市の当代島村の飛地が2カ所(広尾・立脇)あった。
 おそらく当村は、塩浜新田から海にむかった地字群は塩内であったと考えられるので、塩田をたくさんつくることによって村の力を増やしていった村だったといえる。
 新井の地名語源は、常に流路が変遷する川の近くに多くみうけられる、といわれており、旧江戸川に沿った塩田村であったことがわかる。


【121】ちばのうり酒

 この欄でしばしば紹介した中山の法華経寺が所蔵する「聖教裏文書」に、酒に関するおもしろい鎌倉時代の文書がある。受け取りも差出しも分からない手紙なので、「某書状」としか言いようがないのだが、中身はどうやら宴会の算段のようだ。前後の内容からみておそらく関東の首都鎌倉にいる千葉氏の家臣が、下総市川あたりにいる一方の役人にあててあれこれと酒肴の整えをしているのである。
 それを見ると「御もうけ」つまり饗応に必要なのは白米五升、水鳥二羽、鯉鮒のたぐいだが、肝心の酒については「御酒はつやつやもち候ハぬ」ので、「ちは〈千葉〉にてうり酒なんと候ハゝ、かふ〈買う〉へきよし」を使者申し付けたことが載っている。
 さてもちろん注目したいのは千葉の売り酒である。一般に酒を売ることの起源は古く、古代には確認できるのだが、それは当時の首都を中心にした近畿の市に限られていた(市酒)。それが中世の鎌倉に大量の酒壷が出現し、幕府がたびたび売酒の禁令をだすほどであった。そして千葉という地方にもその酒売りが現われたのである。
 地酒、というとあれこれと、と舌なねずりをされる向きもあろう。たしかに歴史上で初めての千葉での地酒の登場であった。


【120】電話

 昭和32年度改訂版『市川市動態図鑑』(住宅地図)には、名字や店名、町名や番地など以外に、ところどころの家に、アルファベットのTを頭文字にして数字が記されている。現在の動態図からは考えられないが、これは電話番号である。
 市川で電話交換業務が開始されたのは、大正5年12月16日、市川郵便局ではじまった。この創業当時の電話加入者は30名。加入者には、本多貞次郎、浮谷権兵衛、西久保弘道などがいた。因に、旧電話番号0番は、郵便局(公衆通話用)だった。架設料は330円。白米が10キロで1円20銭の時代である。どうして架設料がこんなに高かったかというと、当時は架設希望者が、電話機や電話線、電柱、交換設備といった一切の設備費用を寄附するという特設電話制度があったためである。
 この後、大正12年に浦安局、14年に北八幡局、15年に行徳局、昭和13年に大柏局が開設され、電話施設数も昭和32年には、4889台になった。
 この間に、交換手に申し込む「待時通話」からダイヤル式電話になり、現在と同様のシステムになった。
 当時の度数料は、市内で1度5円であった。(昭和26年)


【119】民具再見 マルチ

 マルチとは畑に野菜の種などを蒔くときに使うビニールシートである。等間隔に穴が開いていて、このシートを畝の上に敷き、穴の中に種を落として蒔くのである。
 現在の畑作は耕耘機、畝きり機械、種蒔き機など大型の機械が多数導入されているが、資材の面でのビニール製品の使用が著しい。マルチを敷いて蒔いた上には、キャロットと呼ばれるシートを骨を立ててトンネル状にかぶせることが多い。キャロットはトンネル状の天井部に数列の穴が開いていて、穴を列毎にふさいだり開けたりして換気を調節できるようになっている。
 これらのビニール製品が市川の農家でとり入れられるようになったのは昭和30年代初め頃という。初めはビニールに自分で穴をあけてマルチ球のものを作って使っていたが、その後形状にも工夫が加えられてきている。このような資材の普及によって、かつては彼岸までに種蒔きを終えないと成育できなかった野菜も、真冬に種蒔きができるようになっている。
 ビニール以前の霜除けにはワラなどが使われた。例えば、大根はワラを折り曲げて地面に差し込んだ下に蒔かれていた。ビニールはワラの延長線上にあるわけだが、単なる代用品ではなく、畑作の生業暦をも変えるものとなった。


【118】近世の押切村

 おしきり村は元禄時代82石余、天保時代94石余、明治初年101石余と、少しずつ耕地をふやした村である。
 この村の地字(ちあざ、集落や耕地につけられた名のこと)は、河原・関ヶ島・伊勢宿と同じように、行徳道の両側を東側・西側とよんでいる。これが湊・湊新田では野側・南側とよび少し違うようである。その他の押切村の地字は、光林寺のあるところが村下、海にむかって順に東根通・仲根通・南根通、この地字の上を地下鉄東西線がとおっている。さらに海にむかい東沖通・南沖通・中沖通・押切東浜と続いている。
 このうち中沖通と南沖通のあいだに立野(たての)と呼ばれるところがある。この立野というのは、農民の入会(いりあい)利用を禁止した原野。特に、採草・狩猟地、または造林適地として領主の直轄地に指定された所が多く、現在でも各地に地名として残っている(『日本国語大辞典』小学館)。この立野は押切村にあるが、湊村の飛地となっている地字である。
 こうした立野というのは、利根川、江戸川流域の村むらではよくみうけられる地字であり、はじめは領主規制のつよい場所であったが、のちに入会や河川変動との関係によったものであろう。


【117】真間の継橋と頼朝

 治承4年9月、石橋山の戦いに敗れた頼朝が房総半島を経略して10月に鎌倉に居を構えるのはあまりにも有名だが、頼朝が市川の近辺を通るおり、葛飾の八幡神社に願文を捧げ、真間の継橋を通って国府の赴いた、といったら、何を荒唐無稽な、と思われるむきもあるかと思う。
 『吾妻鏡』の伝えるところは、たしかに国府で千葉常胤と参会しているが、それ以上のことは伝えていない。しかし、この過程を考えるのに貴重な資料群は『平家物語』の諸本、特に千葉氏の周辺の人物が13世紀後半に造り上げたといわれる『源平闘諍録』という本である。これは『鏡』などには見えない史実に近い部分を伝えていることがわかっており、さきの頼朝の動きもこれによる。
 さて八幡神社の願文はともかくも、真間の継橋は興味深い。というのは上総から下総に伸びた古代の官道と国府のありかたがここに伺えるからである。
 継橋の先にある弘法寺は今は日蓮宗だが、その前は国府に縁の深い寺とみられ、国府の台地へと続いている。室町時代になると、市川が弘法寺の門前の宿として見えてくる。その弘法寺と市川の宿を結ぶ継橋が、実はその前に官道と国府を結んでいた、と考えたい。


【116】昭和22年生活事情

 昭和22年3月の「アサヒグラフ」には、東京街上にてとして、当時1円で買えたものの写真が掲載されている。たとえばどんなものがあったかといえば、亀の子タワシ、箸、スプーン、ボタン、切手、祝儀袋、髪止め、指貫きなどであった。
 昭和21年1月から菅野で間借り生活をしていた永井荷風は、日記の『断腸亭日乗』の中に、当時の物価を記している。それによると、
 昭和22年4月14日には、「人参十本位 金二十円也、玉葱十個 金十五円也、鯖干物一枚 金三十円也、鰻蒲焼上等一串 金四十円也、鶏卵一個 金九円也、白米一升 金九十円也」とあり、同年11月には鶏卵が一個20円と、倍以上に高騰したことが記されている。
 また7月6日には、「明日より電車賃また値上げ。省線京成とも最低五〇銭のところ一円。東京市中の電車一円のところ二円になる由。また市川市中の銭湯1円五〇銭のところ既に二円となれり」とあり、街の人々の雑談を聞いても、話題は食料品不足と物価高騰のことのみだと嘆いている。
 しかし、こうした生活の中で、法華経寺境内での軽業手踊が大入りの景気だったという文章を見ると、過去のことながら何かホッとしたような気がする。


【115】民具再見 石工の道具

 “はりまわし”“さしば”“とんぼ”“たたき”“びしゃん”“せっとう”“こやすけ”――市内河原の石材店で50年も石を相手に仕事をしている石工さんに教えてもらった道具の名前である。“つきのみ”以外はすべて木製の柄の先端に、石材加工用の鉄が取り付けられている。つまりは金槌の形態で、先の鉄の部分が加工用途に応じた様々な歯を持っているのである。たとえば“びしゃん”金槌の片側の面いっぱいに凸凹があり、これで石の表面を丹念にたたいて平らにする。たたかれた面はちょっとざらっぽく、味のある平面が作り出される。
 “つきのみ”は文字を彫るのに使うのが、現在では機械で上下する動するのみが登場している。石工工事も機械化は著しく、仕事ぶりも変わってきている。
 かつて石材店は川添いでなければ成り立たなかった。重い石を運ぶ手段は船に頼るしかなかったからである。江戸川の舟運盛んなりし頃、市内では主に伊豆と呼ばれる伊豆半島産の石が使われた。その後鉄道輸送の時代を経て、今はトラックである。産地は茨城県真壁町へと変わった。
 輸送手段の変化に伴って産地が変わり、機械の導入も著しい中で、昔気質の職人の手にはまだ昔からの道具が握られていた。


【114】近世の伊勢宿村

 いせじゅく村はどのような村であったろうか。江戸時代の行徳地域の村は約18カ村であった。このなかで村の田畑面積を多く持った村は、妙典、本行徳、欠真間の3カ村であり、ついで中位の村は、原木、高谷、田尻、稲荷木、大和田、河原、湊、新井の8カ村であり、村高(むらだか)が2ケタの村は、二俣、下新宿、関ヶ嶋、伊勢宿、押切、加藤新田、儀兵衛新田の7カ村であった。
 とうぜん村高はその村が生み出す村の力ではあるが、村高が多いからイコール村の力が強いということにはならない。市川市域ぐらいの面積を占めていても5万石ぐらいという地方はいくらでもあり、問題はその村がもっているまとまりやその村が地域ぐるみで地域の人びとが生活をなりたたせているシステムの実態や構造をみることが重要なのである。
 たしかに伊勢宿は小ぶりな村であった。全国的に1村ごとの村高を書きあげているのに、なぜか郷帳(ごうちょう)と呼ばれる歴史資料をみると、伊勢宿村村高、元禄―34石余、天保―30石余、幕末・明治―42石余となっている。
 江戸時代の大百姓が1人で持っていてもおかしくない田畑である。とはいっても問題はその内実こそが興味深いのである。


【113】市川両宿と弘法寺のこと

 14世紀もおしつまった明徳5年(1394)、前年にもちあがった法服に関する中山法華経寺と真間弘法寺の対立は、思わぬ大きな波紋を拡げていた。弘法寺の日満はこれを機に法華経寺をはなれ身延山の久遠寺と結んでいくが、その際法華経寺側が寺領や本尊の引渡しを要求したところ、日満以下の僧衆と「市川領宿地下人」が拒んだのだ。
 地下人(じげにん)とはいわば庶民のこと。では彼らが住んでいた市川両宿とは何処か?
 江戸時代には八幡が宿となり、現在の市内の市川には関所がおかれた。これは幕府の政策でつくられたものだが、それ以前すでに宿と呼ばれるものがあらわれているのだ。中世の常陸国などを見るとこうした宿が至る所にあり、市川宿とはそのようなものの一つであろう。江戸幕府はこれを上から把握したわけだが、その際市川の宿を関所に変えていることはおもしろい。
 その時期がいつかが知りたいが、現在わかることは、慶長年間には市川が八幡の次の宿として確認できることだ。そして市川の次は「かさい」。すると両宿とは、あるいは江戸川をはさんで市川・小岩のことかもしれない。この宿は中世の弘法寺門前にひろがる門前町として形成されたものもあったと推測しておきたい。


【112】市川北口露天街

 人の記憶は曖昧なもので、そんなに昔のことではないのに思い出せない風景がある。その一つが、市川駅の北口側がダイエーが建つ以前にどうなっていたかである。
 終戦後すぐに、駅前で澱粉飴の露店を出していたという中村龍次氏(大正6年生まれ)の話では、その当時、駅前は原っぱで、日通と島村(文具店)だけであり、あとは衣類や食料品(天ぷら、おでん、焼鳥等)の露店が出ていたという。露店はリヤカーで毎日品物を運び、ゴザを敷いただけの簡単なもので、日に10銭か20銭くらいの場銭を払い商売をしていた。
 それが昭和23、4年頃になって、40数名が1人40円ずつを出しあって土地所有者の浮谷権兵衛氏から289坪の土地を買い、ここに睦会がマーケットをつくった。1人あたり6坪くらいだったが、建物は所有していたものの月に4円の家賃を払って商売をしていたという。中村氏はここで喫茶店「一力」を開いていた。このマーケットには、飲食店、雑貨店など115軒が軒を連らねていた。(昭和36年度市川市動態図から)
 昭和21年から市川に移り住んだ作家の永井荷風も、しばしばここを訪れている。


【111】民具再見 小俵

 春を迎えると稲作農家では米づくりの最初の仕事、一番うないが行われる。マンガンやクワを使って田をうなう作業で、田植えまでには3回ぐらい行われる。
 田んぼで田植えの準備を進める一方では、種となるもみが用意される。種まきの前には、芽を出やすくするために必ず種もみひやしを行うのである。この時に使われるのが小俵で、普通の俵よりずっと小さく、直径30センチ、長さ80センチ程のものである。この中に種もみを入れて、しいな(不入りの実)がくさるぐらいの間、池の水につけておく。小俵は文字どうり俵のミニチュアでかわいい形をしている。種もみひやしは種まき前の大切な作業で、ひやしておく池はタナヤとも呼ばれていた。
 このような春先の農作業も近年、市川市内では目にすることが少なくなっている。特に昭和50年以降は水田面積は大きく減少してきている。
 市内北部の北国分地区でもかつて田んぼであったところが畑に生まれ変わっている。カマッタと呼ばれた湧水池は米づくりには大切な水源であったが、埋め立て後も水は湧き続け畑作にとっては厄介な存在ともなっている。このような畑の下には排水用パイプという新たな資材が据えられているのである。


【110】近世の伊勢宿村

 いせじゅく村。この村は行徳地域では、関ヶ島と押切にはさまれた小さな村である。地字名も旧江戸川からみると、西側・東側・根通・北江川縁・南江川縁・南仲通とある。
 まず村名の伊勢についてみると、
(1)イソ(五十)・セ(瀬)で「瀬が多い」意
(2)イ(接頭語)・セ(瀬)の意か
(3)イソ(磯)の転。「石地」
(4)伊勢信仰による伝播地名
(5)伊勢の国名による伝播地名(『地名用語語源辞典』東京堂出版)
などとあり、おそらく伊勢宿村の場合は、海のそばという立地からみても(1)〜(3)あたりがもっとも適切であろうとおもわれる。中世・近世になると伊勢信仰の広がりとともに(4)の伝播地名も多数発生されたともいわれている。
 また地字名をみると、西側・東側は行徳みちの位置から見た地名であり、根通は自然堤防のすそをさしているであろう。北江川縁・南江川縁などは、行徳塩浜の製塩法のしくみのなかで塩田を囲い、その堤の各所に水門をつくり、そこより塩田周囲の溝を通して海水を導き入れ、塩田の周囲全体に海水をまわす(「行徳の塩づくり」市立市川歴史博物館)が、その溝を江川(えが)というので、そのあたりからきたものと考えてさしつかえないのであろう。


【109】市川と頼政

 源三位頼政といえば、頼朝にさきだって平家に叛旗を翻し、宇治で果てたことが有名だが、彼の父源仲政が受領国司として下総に赴任し、また彼が真間の歌を詠んでいることは意外と知られていない。
 仲政が東国に下ったのは元永元年(1118)のこと。武家の国司らしく勇猛で聞こえ、『中右記』によれば賊を捕えに常陸国に出向き、ついでに百姓宅に乱入して「万物」を押し取るという有様である。国府市川から、江戸川・利根川にわたる地域は、仲政の庭のようなものだったのだろう。ここにある下河辺御厨に主下河辺氏が仲政の従者になったのもこの時と思われる。
 しかし、彼はただ勇猛のみでなく歌人としても秀でていたらしい。源俊頼の自撰歌集『散木奇歌集』には仲政の俊頼にあてた歌が収められている。
 この父に連れられて、頼政自身も下総にやってきたのか、治承3年(1179)右大臣兼実歌合で、真間の歌を詠んでいる。
  あづまじを朝たちゆけば葛飾や
       真間のつぎ橋霞わたれり
 治承四年の平家追討の直前に詠まれたこの歌には、戦いの影すらみられないが、やがて下総も、千葉氏の参加で内乱に巻き込まれてゆくのである。


【108】凧

 凧上げといえば、かつてはコマと並んで、正月遊びの代表であった。しかし現在では遊びの多様化や生活環境の変化(広場の減少、電線の架設、建物の高層化等)によって、凧上げの機会は失われてきている。それでもまだ正月には、柏井の姥山貝塚公園や江戸川の河川敷は、凧上げする人々でにぎわう。
 凧上げが庶民の間で親しまれるようになったのは江戸時代である。かなり流行したらしく、慶安2年(1649)正月廿三日には、「従前々如被仰付候、町中ニ而たこ上ケ候事、堅御法度ニ候間、家持子共之儀ハ不及申、借屋店かり之者迄念を入為申聞、たこ上ケさせ申間敷候事」という町触も出されたほどである。その後のたびたびの禁令にもかかわらず、浮世絵の流行や木版技術の発達が凧の流行に一層拍車をかけた。天保12年(1841)には、凧の絵柄や彩色が派手になってきたことに対する禁令まで出ている。
 凧の流行に伴って、全国各地に郷土色豊かな凧が生まれた。残念ながら“市川の凧”といったものはないが、県内では上総の唐人凧や長南の袖凧が特徴のある凧として知られている。
 “天までとどけ”と歌われた凧も、いまでは鑑賞用となっているものが多い。


【107】民具再見 辻切りの大蛇

 辻切りとは災厄や悪疫が村の中に侵入するのを防ぐために、村の入口に当る辻に注連縄を張ったり、大草鞋や藁で作った蛇を掛けたりする行事で、全国各地でいろいろ行われている。
 市川市内では国府台3丁目の天満宮で毎年1月17日に行われる辻切りが市の民俗文化財に指定されて、辻切り保存会の人々によって伝えられている。当日は藁で長さ2メートル余りの大蛇を4体作る。目は藁灰を半紙で包み込んで墨で丸を描いたもの、耳はびわの葉である。できあがった蛇にはお神酒を飲ませて魂を入れてから村境の木の上に、頭を外に向けて結びつける。こうして大蛇は1年間、風雨にさらされながら村内の安全を守り続けるのである。
 北国分町の堀之内地区では昭和33年にとだえていた辻切りが12年前の巳年から復活している。
 保存会や地元の有志に支えられて伝承されている辻切りであるが、その現在の悩みは藁の調達である。宅地化の進む市内では減反政策も合俟て米作りをする農家が非常に少なくなっている。
 稲作の副産物としての藁は、この大蛇ばかりでなく、履物、敷物、あるいは飯びつ入れなど生活の隅々で活用され、“ワラの文化”を形作ってきたが、その前途は危うい。


【106】近世の欠真間村

 かけまま村は大きな村であり、行徳地域では本行徳につぐ村高を持った村である。幕府が国ごとに村高を書きあげた郷帳によると、元禄では「闕真間村」419石、天保「闕真間村」701石、明治「欠真間村」736石と記されている。
 この村もおそらく江戸時代の中ごろから大幅に耕地(塩田も含む)を増大させていったのであろう。明治10年代の迅速図を参照すると、現在の相之川は欠真間村の一部となっている。
 また、ここには今井の渡し場があり、そのすこし上流に島状の洲があったこともわかるのである。木橋ができるのは明治末年であったといわれ、それまでは渡しがさかんだったのである。かつての木橋のあとは、干潮になると今でもその木ぐいをみることができる。
 また、この村ははやくに開かれた村でもあるようで、伝承や由緒がおおく残っている村でもある。内匠堀・浄天堀を田中内匠とともに開削し、大狩野浄天の菩提寺である源心寺があったり、またバス停の中宿は、かつて狩野氏が後北条の家臣として八王子の城につめていたときの当地の名を、八王子落城後この地にうつり住んでつけた地名ともいわれている。


【105】菊地武房の旗

 江戸時代の安政年間(19世紀)にあった『成田参詣記』の真間山弘法寺の頁をひもとくと、「什寶目録抄」つまりお寺の宝を書き上げた所に「菊地武房ノ旗」と「由緒書写二巻」がある。これが前に紹介した百姓新八の祖先「正仁」が奉納した先祖伝来の宝そのものである。新八のことがのっているのは『新編武蔵風土記稿』だから、新八の言っていることが、異なる2つの江戸時代の書物に確認できるわけで、たいへんおもしろい。
 特に興をそそられるのは『参詣記』が図解入りでこの旗を紹介しており、そのありさまが『風土記』の記述と寸分たがわぬことである。
 ここに図解を載せられないのが残念なのだが、『風土記』によれば「長六尺幅一尺余にして、上の方に阿蘇大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神としるし、下に鷹の羽の紋あり、これは菊地氏累代の旗の紋なり」というものであった。また正仁の「文」によれば、この旗は、文永年間蒙古の防戦のときに使用したことも伝わっている。
 さて、こうしたものが今の弘法寺に伝わっているのか否か、いつか機会があればお尋ねしてみたいが、ともかくも、お寺の宝物にも、時として思いもつかない由来や歴史があるものだと、得心される事例であろう。


【104】賭事

 江戸時代、幕府はいっさいの賭事を禁じていた。それは子どもの遊びにまで及んでいる。
 天保十五年(一八四四)二月には、「市中明地往還等にて、めんち打ちと唱、子供遊び致候由、右は賭事に紛敷候間、右體之儀無之様、町役人共より申諭、且巳来右めんちと唱候品、堅売買致間敷旨、組々不洩様可申通」とある。賭事まがいの遊びは行為だけでなく、その道具の売買までも禁止したのである。
 一方で、「博奕賭勝負一切禁止」の幕府法令は、村々の生活にどのように反映されたのだろうか。
 嘉永4年(1851)5月大野村迎米の小前連印帳には「博奕掛ヶ之諸勝負、一切致申間敷、万一、心得違之者有之、博奕宿等致候は、為過料五貫文、打子銭三貫文、両隣家銭壱貫分、組合同断差出、村内道橋等之普請入用ニ可致事」(『市川市史六巻上』)とある。このように賭事をした者からは過料(かりょう=罰金)を取り立てて道路や橋の普請に当てていたのである。
 賭事に対する幕府の禁令は、江戸市中をはじめ村々に頻繁に出されている。それほど守らなかったということなのだろう。ダメだといえば、なおさらやってみたくなるのが人間の性か。現代の公営ギャンブルもこうして生まれたのかもしれない。


【103】民具再見 足踏式脱殼機

 稔りの季節、刈り取られた稲は充分乾燥させたのち脱穀となる。
 脱穀作業には古くは扱箸(こきばし)が用いられ、稲を二本の竹の箸や割り竹の間にはさんで種を引き抜くという悠長なものであった。能力の高さ故、“後家だおし”などと呼ばれた千歯抜きが登場したのは元禄時代(一六八八〜一七〇四)といわれる。市川周辺でカナゴキと呼ばれたもので、扱箸にくらべ作業能力は三倍とも十倍ともいわれた。
 歯を回転させることによってさらに作業能率を高めたのが足踏式脱殼機であった。その仕組は、V字型の扱歯を何列も植え付けたドラムをペダルを踏むことによって回転させるというものである。このドラムに穂をあてて籾を扱き落とすのである。大正時代中ごろに広く普及し、戦後動力脱殼機が全盛になるまで使われた農機具である。
 足でペダルを踏んだ上下運動を円運動にかえてドラムを回転させるという単純な構造で、動力そのものを人に求める非常に初歩的な機械化ではあったが、従来の脱穀作業の労力を著しく軽減し、その後の農業機械のさきがけをなすものであったといえよう。
 本体に付けられて商標には“新案特許”“元祖”“農機界之覇王”などの言葉がみられ、当時がしのばれる。


【102】近世の河原村

 かわら村。村のちからは、元禄時代(1688年ころ)245石余、天保時代(1830年ころ)352石余、明治時代(1868年ころ)348石余となり、おそらくは亨保時代ごろに村の力を増していった村であろう。また天保以降において村高は減少しているが、これまたおそらく話になってしまうが、かつての利根川・太日川の河道が湾曲にカーブしていることが、河原村の耕地に作用したためと思われる。河原町のようなかたちの水際の村に多く見うけられる村高変遷である。
 河原村の地字をみると、西から西側・東側・新宿前、第六天・勢至前・関通・自性院・子新田・元新原となっている。
 地字西側と東側はその中をかつての行徳街道がうねるような形で走っていたので、その南側の地、東側の地ということで、そうした地字がつけられたのではないだろうか。
 現在の行徳橋の道筋の西側にはもとの古い行徳街道が残っている。わずかの道のりになってしまったが、その道筋の入口をすこし距離をおいてながめると、おおげさなものいいではなく、ほんとうにかつての行徳の風情を今に伝えてくれるのである。円高便乗で安っぽい外国旅行しているよりは、はるかにすばらしいことと思うのだが――。


【101】百姓新八のはなし

 江戸時代の地誌『新編武蔵国風土記稿』にはいろんな話がのっているが、新八の話のくだりはこうである。
 新八の先祖は肥後国の有名な菊地武房の庶流であり、その流れが何故武蔵にきて百姓になったかというと、ある代の時「流浪の身」になったからである。時に天正年間というから戦国の世がようやくおさまりかけた太閤秀吉の頃。新八が語るにはその菊地氏の系図と、文永年間、蒙古が日本に攻めてきた時に菊地が使った旗頭とその縁起を持ち伝えているというのである。
 今は百姓に成り果てたとはいえ、自分の家の由緒を物語るこの貴重な品々をありがたらぬはずはない。新八の先祖達は家宝としてこれを持ち伝えた。中でも、元文というから18世紀の前半、正仁という人はこの由緒ある物の散失を恐れ、社を建立して、これを神体にしようと、郡代伊奈忠達に願い出たが、社地の免除は得られなかった。
 困った正仁は、この品々を「ゆかりにつきて」、下総国葛飾郡真間の弘法寺に納めたというのである。正仁と弘法寺の「ゆかり」の中身は知る由もないが、弘法寺や先にのべた法華経寺は、江戸時代に盛んに江戸で出開帳をおこなうから、そのあたりの縁だろうか。この旗の後日談は次の機会にでも。


【100】穴一

 穴一(あないち)は、近世に盛んに行われた遊びである。賭博的な要素が強かったためしばしば禁止令も出された。『貧福悟道捷道』(嘉栄年間刊行)には、穴一をする子どもの挿絵の註として、「おさなきときよりあしきあそびをいましむべし、ならひ性となるといふ」とあるほどである。
 この遊びは、投げた玉が地面に置かれた玉に当れば、当てたものの所有になるといった方法や、地面に掘った小さな穴を目がけて玉を投げ打つなどの総称で、この玉として銭が使われた。しかし、毎年のように出される禁止令などにより、直接銭を使うことが憚られるようになると、それに代わるものとして「泥面子」が使われるようになった。しかしいずれにしても賭け事であることにはかわりはなかった。
 明治34年刊の『日本全国児童遊戯法』には、「この戯今は郡部僻村に於いて稀に目撃することあれど、賭博に類し居れば、方法は憚りて記さず。ただ行われ居ると云うが為名目のみを挙げたり」とある。近世のみならず近代になっても穴一は行われていた。現在でもビー玉遊びの中にこの方法は生きている。
 市内北部の畑では、泥面子が出土する。出土する泥面子の数の多さが、穴一の流行を今に伝えている。


【99】民具再見 種まきごんべえ

 現代の農業はさまざまな面で機械化が著しいが、“種まきごんべえ”なるものも、そんな機械のひとつである。
 7月の晴れた日、北国分の畑ではほうれん草の種まきが行われていた。水はけを良くするため高うねを切り、うねごとに等間隔に13列程種まきをする。あらかじめ堆肥や化学肥料を入れたうねを平にし、殺虫剤などをまいた後、種まきごんべえが登場する。ほうれん草の種は消毒剤がコーティングされていて鮮やかな空色をしている。それをごんべえに入れて押していくと、1つの穴に3粒ずつ千鳥状に等しい間隔でまかれる仕組になっている。種をまき、土をかけてローラーで平にする機能を備えているので、人は押して行くだけでよい。うねの長さ50メートル程の距離を13回行ったり来たりすると種まきは終わるのである。
 ほうれん草は発芽するまでは水分が必要だが、葉は雨にあたると弱いので、発芽後、うねはビニールシートで被われる。雨の多い時期にほうれん草を栽培する工夫だという。
 季節感が失われるほどどんな野菜も1年中食べることができ、その形も整っていて虫食いなどめったに見られない状況のうらには、さまざまな化学肥料や殺虫剤などがあり、種まきごんべえはそんな現代の農業で活躍する道具である。


【98】近世の高石神村

 たかいしがみ村。村のちから村高は二百二十一石余、、領主は“旧高旧領取調帳”では旗本朝比奈氏である。旗本にはめずらしく全村ぐるみを支配していた領主といえる。
 当村の地に付けられた地字をみると、宮下・深町・蔵屋敷・蛇田・中島・溝上・溝上西となっている。この地字をみて気づくことは蛇田という地字が鬼越にもあるということである。しかも、この鬼越村の蛇田は高石神村を北と南に分断しており、この地点はきわめて重要な交通の要所であったことがわかる。それというのも、この分断地点が佐倉道と木下(きおろし)道が接合する場所だったからである。
 かつての交通路は今のような鉄道・電車・新しくできた道路を中心にして考えてはいけない。なぜなら今とまるっきり逆になってしまうことが多いからである。
 江戸時代の交通の中心は主要街道・脇往還、さらに村と村をつなぐ道、村のなかの道であり、大小河川の舟運であった。この代表的交通体系の二つの中心を市川はもっていた。一つは、行徳の河岸場(かしば)であり、そして佐倉道と木下道のターミナル・ステーションとしての高石神村であった。そのため当村は深町と宮下を中心に村がさかえ、今でも深町通りをいう呼称は遠い歴史を思いおこさせている。


【97】法華経寺の出開帳

 市川の寺社にたつ石碑などに、江戸講中の人々の名をよく見掛けることがある。多分その中の多くの人は、出開帳によって獲得された信者だろうと考えられる。
 例えば中山の法華経寺は江戸時代に実に多くの出開帳を浅草や本所で行っている。出開帳とは不安は奥深く眠る秘仏を人々にみせ、神仏と結縁させる行為をいうが、江戸時代にはそのことで社殿を修理したりする費用を捻出していた。特に江戸近辺の日蓮宗の寺は、盛んに江戸での開帳を行っている。
 出開帳が決まると、寺側は旦那や講中に世話を頼み、寺社奉行に願いをたてる。許可がおりると市民に開帳を知らせる為、開帳立て札を江戸市中に建ててまわる。さらに宣伝の為、木版ずりの配り札が撒かれる。そしていよいよ宿寺(開帳場所)への出立。宿寺は末寺や法縁により選ばれる場合が多い。法華経寺の場合、行徳から船で芝金杉に渡り、日本橋・昌平橋を通り浅草の本蔵寺という寺で開帳を行っている場合がある。
 秘仏は日蓮自作を謳う霊宝類。開帳が結日を迎えると、前日に通夜説法が行われ、翌日は怱供養が営まれる。
 以上は、法華経寺の開帳のほんのさわり。(参考・北村聰氏「江戸における日連宗の開帳」)


【96】首藤保之助

 時として思わぬ場所で、思いもよらぬものに出合うことがある。福島県須賀川市立博物館に展示されている市川出土の資料がそれである。
 これらの資料は、福島県出身の首藤保之助が、明治から昭和にかけて蒐集したものである。
 首藤保之助は、明治20年に福島県に生まれ、明治42年東京府青山師範学校卒業の後、昭和20年まで東京市内の小学校に訓導あるいは校長として勤務していた。この仕事の傍ら、関東はもとより全国各地を廻って考古遺物の蒐集に努めたのである。昭和12年には郷里に阿武隈考古館を創設し、昭和33年にはこの館の資料5万点あまりと、採集記録27冊を須賀川市に寄贈している。
 彼が付けていた採集記録は近年、須賀川市立博物館から『首藤保之助(阿武隈考古館)考古資料』として研究報告書が刊行されている。しかし、大正12年までの記録は残念ながら震災で灰となってしまっている。
 この記録には、昭和14年に市川の真間・須和田・国府台・宮久保・曽谷貝塚・堀之内貝塚・国分寺を歩いた際の採集遺物の列記をはじめ、スケッチや当時真間から須和田にかけて行われていた土取りの様子などが記されている。


【95】民具再見 農具絵図

 市川市域の農具の変遷を知るうえで貴重な資料のひとつに明治13年の農具絵図がある。
 『農具器械圖面表 千葉県葛飾郡役所第一課三分掌』とまとめられた中に、高谷村(現在の市川市高谷)の「農具器械圖面一覧表」と「行徳領製塩器械圖面一覧表」が含まれている。
 当時使用されていた道具類について、1点ごとに図が描かれ、その寸法と代価が記されたものである。たとえば「鍬(クワ)此代價金壱円」「馬把(マグワ)此代價金七拾五銭」、高価なものには踏車「金七円」などがある。踏車は水車とも呼ばれ、用水路より水位の高い田んぼへ水を汲み入れる道具である。
 明治13年に描かれた農具絵図は、愛知県や長崎県などにかなり詳細なまとまったものが残されていて、これらの絵図は当時の内務省勧農局の手によって全国的に調査・作製されたものと推測されている。農具調査の意図についてはどの農具絵図にも記されていないが、明治13年頃の農政の状勢から、在来農法や農具の利点を掘り起こそうとする施策の一環によるものと考えられている。
 欧米農業の導入がはかばかしく進まず、在来農法見直しの気運が高まった時期で、高谷村の絵図もこの調査にかかわるものと思われる。


【94】近世の下新宿村

 しもしんしゅく村。幕末の支配構造は幕領分73石余、ほかに寺分の年貢対象外地である除地(じょち・よけち)として、大徳寺除地・浄林寺除地それぞれ1石未満となっていた。全体として村高が74石程度であり、行徳領の村として、かつての江戸川本流の自然堤防上にのっかったコンパクトな村であった。
 この村には江戸時代に書かれた古文書は今日まであまりよく伝わっていない。しかし、文書がないからといって下新宿の人々は江戸時代あまり活発でなかった訳ではない。
 文書はこれまでのところあまり見つかってはいないが、さいわいにも明治時代の早い時期に書かれた地籍図が残っている。これはよく公図と呼称しているものである。この地籍図をたよりに、かつての下新宿村の歴史景観の復原およびその後の変貌をたどることができる。
 下新宿村の人々が住んでいた場所は昔も今も現在いうところの住居表示、下新宿である。これは小字居村(いむら)と呼ばれ、人びとはこの居村の周辺にすこしではあるが田と畑を耕して生活していたわけである。
 また、この村も行徳領の村むらの例にもれず、あちらこちらに飛地を分散して持っていたわけであり、併わせて塩田の仕事にも従事していたのであろうと考えられる。


【93】柏井唱行寺異聞

 康正元年(1455)の11月のこと、今の幕張のあたりから市川の柏井に向って大軍が押しよせようとしていた。千葉氏の一族馬加(まくわり)康胤の軍勢だ。ちなみに今の幕張とは馬加の転訛したもの。千葉家の家督争いに、当時の古河公方と上杉氏の争いがからまり、下総一国はゆれにゆれていた。その中の合戦の一コマである。だがここでみたいのそのことではない。
 柏井の唱行寺は太鼓の霊場で知られる日蓮宗の寺だ。この寺に当時、日心と名のる坊様がいた。この唱行寺に馬加の軍勢が乱入した。近くの大野にいる敵の曽谷氏に攻めかかる足がかりにしたものか、とにかくあの高台の唱行寺が軍勢にふみ乱されたのだ。
 日心は軍勢に対して、寺堂を守ろうとして、討たれてしまう。その日心をだれが弔ったものか、松戸の本土寺の過去帳が彼の名をのせるのである。
 禁制(きんぜい)やら制札(せいさつ)という文書がある。寺に乱妨してはいけないということを武将が保証するものだが、思うにあれは、その武将自身の乱妨を止める効力はもっていないらしい。多くの制札の影には多くの日心のような者の死が隠されているのではないか。唱行寺の前を通ると、いつも日心のことが思い出されてならない。


【92】荷風が愛した街

 手元に荷風の最期の写真を掲載した雑誌がある。新聞や雑誌、生活用品の散らばる乱雑な部屋。汚れた畳。そこに吐血して突っ伏すように荷風は死んでいる。
 荷風が胃潰瘍のために急死したのは昭和34年4月30日。市内での転居四カ所目である八幡の家が臨終の場となった。
 彼が市川に転居してきたのは、昭和21年、67歳の時であり、それから亡くなるまでの晩年の13年間を市川でくらした。荷風は市川を生活の起点として、浅草や銀座へと連日のように出かけ、この生活が死に至るまで続いていた。
 こうした生活の記録は、荷風の作品のうちでもっとも長く後世に残るだろうといわれている日記『断腸亭日乗』に記されている。
 荷風がよく出向いた店に京成八幡駅そばの大黒屋がある。ここで彼は一級酒1本とカツ丼を好んで食べた。臨終前夜もこの店に立ち寄っている。彼が通ったこの店も、5年前の昭和58年に新築し、鉄筋コンクリート造りになって昔のおもかげはない。
 荷風が「人家少なく閑地多し」と記した菅野の周辺も、現在では外環道路問題で俄にさわがしくなってきている。
 荷風が愛した街は大きく変わろうとしている。


【91】民具再見 火鉢

 今ではあまり見かけなくなった暖房用具だが、15年程前には市の施設でも欠かせない暖房具として使われていた。中央図書館では昭和48年9月に暖房用工事が施工されたが、その前年の冬まで火鉢が活躍していた。館長室用には直径45センチ程で持ち手の付いた金属製、職員の足元には小型の陶製のものが置かれていた。質の良くない炭ははじけて女子職員のストッキングを伝染させることもしばしばだった。
 古くは火桶とか火櫃(ひびつ)といい、桧や杉などの曲物に土製の火容(ひいれ)を置いて用いた時代もあった。火鉢が一般に広く普及したのは近世で、木製指し物の角火鉢や長火鉢、鋳物や土製・陶製の焼物の丸火鉢など各種のものが作り出されるようになった。近世の都市生活と、本来金属精錬用燃料であった木炭が家庭の燃料に利用されるようになったことが火鉢の普及を促したのである。
 火鉢のもたらした生活の変化について柳田國男は次のように指摘している。「手軽な火鉢が買われるようになってから、どこの家でも是に少しの火を入れて、用の無い人たちはさっさと炉端から離れて行くことになりました。私たちは是を家の火の分裂と名づけて、非常に大きな世の中の変り目と見て居る」(『火の音』)


【90】近世の関ヶ島村

 せきがしま村、村の力である村高を『旧高旧領取調帳』でみると、46石余である。領主は代官支配所であり、幕領である。
 この関ヶ島村は村高46石余のみにおさまらず、天保15年(1844)に5石余、弘化3年(1846)に3石余、嘉栄5年(1852)に3斗、とそれぞれわずかではあるが、村の力を増していることがわかる。しかし総体的にみて村高の大きな村ではなかった。
 これまでのところ、直接的に関ヶ島村を表現してくれる近世の古文書(こもんじょ)は見当らない。このあたり一帯をカバーしている『東葛飾郡誌』にもこの村の記載は神社の古録天神社、寺院の法性寺(ママ)・徳蔵寺をおしえてくれるのみである。
 しかし、この村には明治期頃に和紙でつくられた公図(地籍図)が伝存しており、当時の、つまり幕末ぐらいの当村の耕地景観がつぶさにわかるのである。
 ここで集落と耕地の地字と現在地の比定をら列しておき、今後の近世せきがしま村の景観復原のヒントにしてもらいたい。旧江戸川から海にむかって、地字北側→関ヶ島一〜三、南側→同四〜六、徳蔵寺→同八、法性寺→同七、根通→同一〇〜富浜三、中通→富浜三〜末広二、飛地は沖通→富浜三〜塩焼三と芦畔→市川インター付近がある。


【89】まぼろしの松丸村

 市川に松丸さんという方が多いという話はよく聞くが、中世、市域には“松丸村”という村があったことが中山の法華経寺の所蔵する古文書からわかる。
 松丸村は現在の大野付近にあったと推測できるのだが、確実にここだ、という確定ができない。法華経寺の古文書からは江戸時代以前の市域の有様が断片的にうかがえるのだが、北方、若宮、中山、法免といった現在にもつながる村名が既に出現している中で、ただ1つ、松丸村は江戸時代の村にもなく、忽然と姿を消してしまう不思議な村なのである。
 ところが大変おもしろい中世百姓の動向を伝えてくれるのも、他ならぬこの村なのである。
 日親『折伏正義抄』によれば、この村には「草堂」一宇があり、千葉の妙見座主が知行していたが、百姓は灯明料を未進しだし、やがて日蓮宗に帰依したという。村の集団意志により年貢を拒否し、宗教を主体的に選ぶ。数少ない市川、ひいては東国百姓の有様がわかる貴重な例である。
 それにしても何故松丸村は消え、松丸さんが多く市川におられるのか。両者は密接に関連すると考えるのは極く自然なことであるのに。
 これをお読みになった松丸さん、何かこの件についてご存知ではないでしょうか?。


【88】川の流れ、水のゆくえ(2)

 川が人々の生活と密接な関係にあったのはいつ頃までだったのだろうか。
 植草家(柏井)の『農事日記帳』(大正8年)には「十二月十二日、晴、光太郎せいは、新宿(にいじゅく)へ甘蔗を進上物として浜道川より舟にて八幡まで、それより車にて市川橋へ行き、同所にて新宿の菜と交換して午後二時半頃帰りたる」とある。
 浜道川は現在の大柏川であり、車は手車であった。この他にも日記には浜道河岸から餅などを舟に積み、八幡から手車をひいて東京まで行ったことなどが書かれている。当時は少なくとも柏井の人々にとって浜道川は“道としての川”であった。
 農業生産に不可欠な下肥もまたこの川を上ってきていた。こやし舟(うんこ舟)が江戸川や真間川を行き来していたと語る人はいまも多い。東京からの下肥は、江戸川を大きな「もと船」で運ばれ、真間川の水門付近で「さっぱ舟」と呼ばれる小舟に移された。いっぱいに下肥を積んだ舟をひとりが川岸から綱で引き、ひとりが竿で押した。戦前まで盛んだったという。
 道としての川の役割が失われてしまったのもそんなに昔ではない。川がもたらしたものも形あるものばかりでなく、人づての貴重な情報も多かったようである。


【87】民具再見 臼

 市内で伝承されてきた年中行事のひとつに臼伏せがある。
 年の暮、正月のための餅つきを終えた30日頃に行われ、臼供養とも呼ばれている。
 伏せた臼の上に石臼を乗せ、松やしめ縄を飾り、餅を供えるのである。正月3が日は、神棚などに供えるのと同様に餅や御飯、なますを供え、11日まで伏せる。
 11日は田うない正月といい、その年初めての鍬入れをする日だが、それに先立って臼起しが行われる。起した臼の中で、下げたお供え餅をこまかくくだき、鍬入れのとき田へ持参して、米と共に供えるのである。
 正月に際しては農具の年取りといって、鎌や鍬などの農具にもしめを張るなどして年を取らせて新たな力をつけさせるという例があり、臼伏せもそのひとつと捉えられる。
 ただし臼には単なる農具以上の意味が込められていたように思える。木臼のこわれは近所7軒に分けて焚いてもらうべきものとか、不要になった挽き臼は魂抜きといって二つ割りにして捨てると伝えている地方がある。また、人に貸すことを嫌うとか、貧乏しても最後に手離すのが臼、という例もあり、米つきや製粉など食物の調整に欠かせない道具として、臼が生活の中心にすえられていたことが推しはかれる。


【86】近世の湊村

 みなと村、幕府がそれぞれの年代に作成した村の力をしめす村高表である郷帳(ごうちょう)をみると、元禄(今から300年前頃)で108石余、天保(今から150年前頃)で187石余、旧高旧領(今から110年前頃)で372石余、と村高はかなりの増加をしめしている。
 現在の市川市地図では湊と湊新田とに分かれているが、江戸時代には湊村から湊新田は公式的には分村していなかった。おそらく湊新田は江戸時代をつうじて、湊村のなかの村としてその生命をたもちつづけていたのであろう。新田名がついているが、江戸時代におもてむき独立していないかのようにみえる村は多い。とくにエネルギッシュな村に多くみられる。湊村の場合は塩田開発に関係していた村であるから、こういった湊新田を村のなかの村としてつくり、この新田を前線基地としておおいに塩田開発をもくろんだのである。
 このようにエネルギッシュな力を発起したことで、その繁栄はとうぜんのごとく土地に刻まれ、そのあらわれが村高の増加となったのである。
 村が景観変貌をとげることは、村高変化から発展のみと読みとりがちであるが、そうではなく湊村の村人の悩みと持続するささやかな力あっての、ゆきつもどりつの中での変貌と読みとるべきである。


【85】下人

 葛飾柴又の寅さんといえば、市川の川向を舞台とした“下町の英雄”だ。寅さんのように気ままに全国を放浪したいと密かに願っているサラリーマン諸氏も多いに違いない。
 中山の法華経寺には、中世の古文書が多数あり、大切に保管されている。その中には、鎌倉・室町時代の“下人”(げにん)の有様を刻名にしるすものが多く含まれている。
 下人は「所従」とか「奴婢」とか呼ばれ、主人に従属するいわば奴隷のようなものだ。中世では在地に強い武力をもつ領主の手となり足となり、様々に使役されるまことにあわれな人々である、と長い間考えれられてきた。
 しかし、近江国の下人“次郎男”の場合は少しちがう。彼は主人の許を逃げ出しては「国中乞食」をして暮らし、また連れ戻されては、今度は「郡守護代」のもとに逃げこみ、自分は下人ではないと訴訟を起こす始末。隷属すると同時に、放浪したり訴訟を起こす下人の“自由”さには驚かされる。彼らの“自由”を支えた社会の特質は何か。
 寅さんが放浪しながらも、食いっぱぐれのないことを不思議に思うことがある。
 寅さんには彼を支える社会が、下人には下人を支える社会がある。我々の社会は、単純なものではないのだろう。


【84】川の流れ、水のゆくえ(1)

 「ゴォー、ゴォー」と無気味な音をたてて流れる水の音を耳にして、普段何気なく歩いている道の下が水路になっていると気づくことがある。市内には、こうした暗渠が少なくない。
 今では排水路ぐらいにしか考えられていない水路も、かつては農業用水はもちろんのこと、輸送機関としての重要な役割を担っていた。
 大正年間に書かれた『大柏村誌』は、当時に水運を次のように伝えている。「浜道川ハ源ヲ鎌ケ谷村道野辺ヨリ発シ大柏村大野区ト柏井区奉免区トノ間ヲ貫流シ下流中山村北方ノ界ニ到リテ分岐シ本流八幡町宮久保ヲ過ギテ市川町真間川トナリ江戸川に注グ一ツハ八幡ヲ流レテ行徳町河原ニ至リテ江戸川ニ注ギ頗ル舟揖ニ便ス、船舶浜道岸ニ三十有余ノ小廻船アリ浜道川ヨリ江戸川ニヨリ農産物ヲ東京市場ヘ輸送シ又肥料等ヲ東京市中ヨリ運搬ス東京ヘハ一日ヲ以テ往復シ得ラルルヲ以テ水運ノ利極メテ大ナリ」
 浜道川とは、現在の大柏川のことである。ここに出てくる浜道河岸のような河岸は、真間川にも数カ所あったことが知られている。荷はここで陸揚げされたり、ここから小さな引き舟に積みかえられて水路を利用して運ばれた。
 道として川が活躍したのは戦前までのことであった。


【83】民具再見 梨げた

 今ごろの季節、梨づくりを営む農家は出荷の作業に追われる毎日である。
 市川でも梨栽培については八幡の川上善六が天明年間(1780年代)に美濃国から接穂を持ち帰って広めたのに始まると伝えられている。
 もともとは八幡周辺での栽培が盛んであった。『江戸名所図絵』(1829年成立)の中には「梨園 真間より八幡へ行道の間にあり」という言葉が添えられた一葉の絵がある。梨の収穫の状景で、梨棚の下で実をもぐ農婦が高いげたをはいて作業する姿を描いている。これが梨げたで、背の低い女性や老人が身長を補うために使うものである。ただし、収穫期には実の重さで棚はしなってかなり低くなるので、梨げたが重宝されるのは受粉や袋かけの時期が多い。
 高さが15センチ程で、普通のげたに板を足したりして各自が工夫して手作りすることが多かったようだ。
 今では体格が良くなり、梨棚の下で腰をかがめて作業する姿も見られるようになっているので、この高げたも過去の民具かと想像していた。
 ところが、この秋、大町の梨畑でしっかり生きている梨げたに出合った。四角いハッポースチロールの塊にゴムの緒がつけられた姿に変身していた。労働のはき物はその姿を変えながら人々の営みをささえていたのである。


【82】近世の市川新田

 いちかわしんでん村の村高は幕末で215石余で、コンパクトな村をいえる。
 この村は新田名がつけられているが、なかなかどうして市域では早い時期に村立てされた村の部類に属する。
 幕府は元禄年間に、関東入部以降、天正・文禄・慶長と検地を実施し、つづけて寛永・慶安・寛文・延宝、と総検地をおこなった。それら検地の最後の仕あげとしてとりおこなったのが、元禄検地である。このとき市域でもっともはやく検地のおこなわれたのが新川新田であり、その年は元禄14年(1701)3月である。検地役人は長田長右衛門・藤井半四郎・池田新兵衛である。
 “市史”によると、市川新田は総武線市川駅と本八幡駅の中間に位置している。旧集落は砂洲上に千葉街道の両側に並ぶように位置しているが、市川新田は江戸時代に入って開発された新田である、と記している。
 こうしたことがらからか、新田村落こそ典型的な江戸時代にできた村といわれるゆえんである。
 また、市川新田は村役人である名主田中家の先祖である、田中正成(明暦元年9月4日に没す)が指導して開発した村であるといわれている。江戸時代の初めに多く見られるいわゆる土豪主導型新田村落である。


【81】ケダイとランダ

 文永9年(1272)、佐渡に配流されていた日蓮は、富木殿(中山法華経寺の開基日常)他の弟子檀那へあて文をしたためる。
 有名な「佐渡御書」だが、その中に「今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは…」との一節がある。「懈怠(ケダイ)」「懶惰(ランダ)」ともに“なまけおこたる”と解釈してよい。もとは仏語からきた言葉である。
 ケダイとは古代や中世の古文書・古記録等によく見かける言葉である。試みに市川に縁の深い古文書をひもとけば、中山法華経寺の代々の貫首、日常、日高、日祐といった人々がしたためたとされる置文(制法)等は、僧徒・俗衆等に「無懈怠」く寺を盛りたてることをうたっている。
 ところでランダとはおもしろい言葉である。佐竹昭広『古語雑談』(岩波新書)によれば、中世の人のケダイとランダの意義づけについて、今日のことを明日にのばすことをケダイとするのに対し、“明日ノ所作ヲ今日成スヲ懶惰ト云”う、つまり明日すべきことを今日やってしまうことが、同じく“なまける”ことになるのだという。「なんと意表をついた斬新な解釈だろう」とは佐竹氏の弁。こんな解釈を生み出した中世人とはなんという人々だろう、というのは筆者の弁。


【80】大柏郷土誌

 大柏小学校には、黒表紙に「永久保存」と張り紙のある綴りが保管されている。
 「大柏村郷土誌―東葛飾郡大柏尋常高等小学校―1」と「大柏郷土誌2」の2冊である。
 大柏尋常小学校に高等科が併置されたのは明治37年であるから、その後に書かれたことになるが、記録年については明記していない。しかし、内容や統計資料等の年代から大正6年頃に書かれたのではないかと考えられる。また、執筆者についても「本村誌原稿ハ各職員分担シテ草セシモオニシテ…」と本文中にあり、項目によって筆が違うこともあってはっきりしない。
 この中には当時の大柏村の村政や自然、人口、生業、風俗習慣等の村勢が記されている。また、古い写真資料もあり、学校や村役場、大野の礼林寺や駒形神社、柏井の唱行寺や子安神社、柏井のぶどう園や大野の梨園(梨下駄をはいての作業のようす)、浜道河岸の舟や荷車を写したものなど22点も含まれている。
 綴のようすを見ると、幾度となく綴り直されたようであり、欠落してしまったページやノンブルがないためにページが前後してしまっている個所も少なくない。しかし、今となっては聞き書きが不可能となってしまった貴重な記録がこの中には残されている。


【79】民具再見 人形

 神や木、藁などで人の形を模して作ったものを“ひとがた”と呼ぶ。
 年中行事の折や呪術などに用いるために作られるもので、これで体をなでたり、行きを吹きかけたりした後、川に流すという習俗は各地にみられる。人の身についた穢れを人形に託して流し去り、清浄な心身をもたらすとともに、自らの災厄を除こうという願いをこめて行う儀礼で、小さな人形は人々の穢れや思いを一身に負うのである。節供の流し雛などはその典型をいえよう。
 八幡の葛飾八幡宮では、毎年、年の暮れと6月晦日に人形の奉納を行っている。当日は本殿前に、竹に茅を巻いて丸く型作った茅の輪がしつらえられて神事がとり行われる。
 宮司の祝詞や参列者の玉串奉奠があり、自分の息を3度吹くかけた紙の人形が奉納される。そして宮司を先頭に参拝者は1列になって茅の輪をくぐり身の穢れを祓(はら)い落とすのである。
 年の暮のは、新たなる年を迎えるに際して身も心も清らかにという思いであり、6月の方は一般に夏越しの祓いといわれるものである。
 6月晦日には大晦日と同じように祓いの行事が伝承されていて、水無月祓えとか六月祓えとも称し、かつて暦制が1年を二分していた証左とされている。


【78】近世の大町新田

 おおまちしんでん村の村高は幕末で1019石余で、幕府が村々を支配しやすい規模の村を亨保期で200石、文化期で400石と考えていたところをみると、とてつもなく大きな村であったといえる。
 大町は新田の村である。しかもそれは江戸時代の一人前としてたちあらわれていた村である、いわゆる村立新田(むらだてしんでん)と呼んでいる村である。
 一般的に村立新田には親村とよばれる、新田農民がもと住んでいた村があったり、諸村からいろいろな人々が集ってきて新しい村を立村する場合とがある。大町新田の場合はおよらく周辺の村々からいろいろな事情をもった人々があつまり、その力によってつくられた村だと思う。なぜなら、周辺に大町村という村がないからである。多くの新田村は大体において親村の村名を頭に冠するからである。
 大町新田の地字をみると、千駄萱・千駄木・千駄山・千駄刈・上野・野末・中里・中野・天野といった各種のものがみられる。地字それ自体は時代によって増加したり減少したりするものであるが、最初に出てくる駄のつく地字や野のつく地字は、この村が、林野の多かったことをしめし、江戸時代も後期になってから耕地が大幅につくられることによって成立した村だと考えられる。


【77】朝観音に夕薬師

 観音様やお薬師様といえば、人々の信仰のあつい仏様だが、古くから、観音には朝の参詣が多く、薬師には夕方のお参りが多いといわれ、“朝観音に夕薬師”という諺が、江戸時代の本『嬉遊笑覧』にみえている。
 その由来は、毎月18日は朝が吉で夕が凶、8日は夕が吉で朝が凶であり、18日が観音、8日が薬師の縁日だから、という説がひかれているが、その真偽は定かではないとしても、縁日に仏に詣でる人々の姿が思いうかぶ。
 江戸をさかのぼった室町時代、市川の高石神に「観音堂」というお堂があったことが知られている。
 このお堂には「堂主」として、当時この附近を領していた原宮内少輔がおり、彼が「旦那」であったが、けっして領主様1人のお堂ではなく、「僧俗日々ノ参詣、夜々の参篭多シ」と、人々のお参りが絶えない“村のお堂”だった。
 ところで、このお堂には観音が安置されていたことは当然としても、他に「薬師経」が収められていた。とすると、先の「日々」と「夜々」のお参りとは、実は朝(日)の観音参りと夕(夜)の薬師講だったのではないだろうか。
 いずれにせよ、高石神の周辺の人々が「観音堂」にぞくぞくと連れ立ってお参りする姿が目にうかぶ。


【76】ヨトボシ

 昔から、子どもの遊びの中には、辻遊びや玩具による遊びのほかに、魚つりやセミとりのように自然の中で動植物の捕獲採集を楽しむ遊びがある。
 ヨトボシもその1つで、ドジョウとりのことである。柏井に住む明治生まれの古老によれば、この遊びは春から夏にかけて、子どもたちの楽しみの1つであったという。
 ヨトボシは、5月の田植え前に行われ、夜、カンテラをつけて田んぼに行き、ドジョウがおとなしく横になっているのを見つけては、ハリで突いて捕り歩き、一晩にザルやバケツに1升ぐらいは捕れたという。
 稲が大きくなってきたお盆の頃になると、ドウという竹簀を巻いて筒状にしたような道具の中に、タニシをつぶして糠をいってまぶしたエサを入れ、これを稲と稲の間に仕掛けてドジョウを捕った。ドウは漁撈用具の一種で、一旦魚がはいり込むと出られない仕掛けになっており、魚の種類によってさまざまな大きさがあった。
 捕ったドジョウは柳川やおみをつけに入れて食べたというから、子どもの遊びといいながらも、食卓をにぎわす無駄のない遊びだった。しかし、これも大柏川の水が飲めるようなきれいな頃の話というから、もう遠い昔のことである。


【75】民具再見 榛名神社の御札

 市川市内の北部を中心とした地域は梨栽培が盛んだ。
 梨畑を持つ農家では、1月から2月にかけて枝の剪定をし、春、花が咲く前の時期に梨棚の修理や消毒などが行われる。花が咲くと受粉させるために交配があり、実をつける頃には、なりすぎた実を落とす摘果、そのあとには袋かけ、といったように多くの人手を必要とする。
 梨づくりにたずさわる人々にとって何より恐ろしいのは雹(ひょう)の被害である。葉が切れたり、実がいたむ。いたんだ実は変化したり、育たなくなったりして、商品として全く売り出せないものになってしまう。そんな雹の被害から梨を守り、豊作を祈る気持ちから榛名神社の「嵐除」の御札が梨棚に貼られる。
 群馬県榛名山の榛名神社は嵐除け、雹除けの神として知られ、市川市内にも榛名講がある。下貝塚の榛名講では、4月8日に集まりがあり、それまでに代表者が榛名神社へお参りして全員の分の御札をいただいてきておき、当日配る。
 榛名神社の御札には「雷電除」「蠢除」、あるいは1月15日に神社で行われる筒粥神事の作占いを記したものもあり、各種作物の種まきや作付けの目やすとされている。
 榛名講の人々は、豊作を祈って配られた御札を梨畑や神棚、門口などに貼っている。


【74】団地

 戦後日本の住宅事情は深刻で、政府は住宅公団を設立させて住宅難の解消を目指した。昭和30年のことである。
 当時、鉄筋コンクリート製の4、5階建ての住宅は、憧れの的であった。中でも、ダイニングキッチン(DK)という新しいスタイルは、多くの人々の目をみはらせた。
 週刊誌から「団地族」という流行語が生まれるほど、各地に団地が次々と誕生している。
 市川に大規模な団地が建設されたのは、他の地域からだいぶ遅れた昭和42年のことであった。このことは、東京近郊の住宅都市として発展してきた市川の特殊な事情を物語っているようだ。
 その第一号は北方に完成した住宅公団中山団地で、分譲アパート10棟280戸の規模を有し、入居が始まると引っ越し荷物を積んだトラックで混雑をきわめたという。
 当時の新聞によれば、入居者のほとんどが都内への通勤者であり、荷物を運ぶ人々の表情は晴ればれとしたもので、早速、牛乳勧誘員や新聞拡張員の訪問責めにあっていると報じている。今と変わらぬ光景がそこにあった。
 この頃を境にして、市川市の施策も、それまでの静かな成長の時期から一転して、急激な都市構造への変化に対応するものへと転換が図られていったのである。


【73】近世の田尻村

 たじり村の村高(村の力)は幕末で133石余、その他に浄経寺除地(じょち、近世の高谷村参照)1石余、円福寺除地1石余、その他天保11年(1840)以降に村高に入れられた11石があり、全体でおよそ146石余であり、こぶりにまとまった村といえようか。
 田尻村の集落立地は浄経寺、胡録神社、円福寺の南側の通りに沿って家並が街村状につらなっていた。現在のバス停田尻2丁目周辺ということになる(明治初年の迅速測図より)。
 田尻村は海村の村、つまり塩田の村である。今から288年前の元禄12年に年貢を納入し、それによって領主から農民にわたされた受取書である年貢皆済目録(ねんぐかいさいもくろく)をみると、塩浜役、塩納といった納入項目が出てくる。これは塩に課せられた年貢をお金に換算して納めたことをしめした書類である。
 そのほかにも、6尺給=6尺給米、浅草御蔵納=御蔵前入用といった雑税も課せられたわけである。「ろくしゃくきゅうまい」は幕府の雑役夫の給米にあてられ、「おくらまえにゅうよう」は浅草蔵前にある幕府米蔵に諸入用にあてられたものであり、これに御伝馬宿入用を加えると、幕領のみに課せられた高掛三役ということになる。


【72】ツジノシゴト

 昨年の暮れ、市域のある道を踏査する機会をもった。
 その道は、下総台地に1本スッと入る谷(ヤト)の西側にそって細くつけられた道であり、江戸時代までは谷下に田が広がり、台地のへりにそっていくつかの村が点在していた。
 道はかなり古いものとみられ、おそらくは谷が開発された当初、それは中世までは確実にさかのぼれると考えられ、そのよすがを示す妙見社や板碑等が道にそって散在していた。
 ところで、道は村と村を結ぶものであり、さらに抜道がわかれている。その交差し合うところが、辻(ツジ)である。
 ツジとは本来、ものの頂上、中心を示す。一群の村々からみれば、そこは地域の中心であり、交際の広場である。
 村で“ツジノシゴト”といえば、村人総出で行う公共の仕事をさす“村の役”のことである。ツジの公共性もこうした村の自律性が支える。
 そして現在、そこはゴミの置き場となっている。
 同じ公共の場には違いないが、我々のそこへの気づかいのなんと少ないことか――。ゴミの散乱は、間違いなく近代の生み出した化け物である。
 そういえば、ツジとは他界への入口・お化けの出る場所でもあったことを思い出した。


【71】ナンコ

 遊びには、数え歌を伴うものがある。お手玉もその一つである。
 「一番はじめは一の宮、二は日光東照宮、三は佐倉の宗五郎、四は信濃の善光寺、五つは出雲の大社、六は村の鎮守さま、七つ中山法華経寺、八つ八幡の八幡宮、九つ高野の高野山、十で東京の泉岳寺」などがそれである。この歌は柏井町育ちのおばあさんがお手玉に歌ってくれたものである。
 かつて柏井ではお手玉を「ナンコ」といったが、今では「シャレちゃって」お手玉というようになったという。
 この「一番はじめは一の宮」の歌は、東日本を中心に広く歌い継がれている歌であるが、歌詞には若干の相違がみられる。たとえば、7つめの「中山法華経寺」は「成田のお不動さま」と歌われていたものを、市川になじみの中山法華経寺に詠みかえたものと思われ、他の土地でも同じような現象があるのではないかと思われる。
 歌を歌いながら、ひとりでいくつものお手玉を畳の上、手のひら、手の甲、空中と、自由自在に操る様子はまるで手品のようであり、おもわず見入ってしまう。それでも「昔はもっとうまかったのに、手がきかなくなっちゃって」と口惜しむおばあさんの姿が目にやきついている。


【70】民具再見 せいろう

 餅や赤飯は伝統的な行事にはつきものの食物である。その基本的な調理法は“蒸す”ことにあるが、その際必要となるのがせいろうである。
 鍋や釜に湯をわかし、その上にせいろうを乗せ、下からの湯気で中に入れた食物を蒸す仕組である。2段3段と重ねて用いることができるので、1度に大量の物を蒸せる。
 せいろうより歴史が古く、同じ機能をもつものに甑(こしき=素焼き土器のものが多く、鉢型かかめ型で底に穴があいている)があるが、これは概して一つ一つが重く、重ねて使用することには適していない。何段にも重ねて使えるものをという工夫がせいろうを生み出したのだろう。また、薄くはいだ木で形づくる曲げものの普及も大いに影響したと考えられる。
 曲げもののせいろうはすでに中世の絵巻物にたびたび登場しており、現在も目にすることができることを考えれば、非常に息の長い道具である。
 曲げものの丸型に対して、木星の箱型のものもある。これは木を井桁に組んで形づくられていて大型で丈夫であるが、曲げものに比べてかなり重量があり、鉄鍋の普及により展開されたものであろう。
 近年はアルミ製、丸型も多くみられ、“蒸す”調理法をめぐって形や材質の上での種々の展開がみとめられる。


【69】電話

 身近にあって日常生活の中で大変重要な役割を果たしているものに電話があるが、このように普及するまでの家庭をふりかえってみると興味深いものがある。
 市川郵便局が二等局に昇格したので、これを機に八幡局の電話事務を合併して新築移転することが打ち出された。昭和12年のことである。ところが、予定地が八幡地域であったため、距離の差から1通話の料金に違いが生じることが問題となった。利用者からの陳情の結果、市川・八幡間の通話料廃止、八幡・東京間の15銭を10銭に、逆に市川・千葉間20銭を15銭にすることで決着をつけることになった。どちらにとっても目的は貫徹し、しかも従来よりやすい料金という結末を得たからである。
 戦時体制下の昭和17年になると、切符による配給制度が実施されている時期でもあり、電話の供出が叫ばれるようになった。県下で最も有閑電話が多いとされた市川では所有者に「大東亜戦勝ち抜くための電話供出」に協力を求めるため、使用回数の調査を開始することになったと、当時の新聞は伝えている。
 局番が今のように2ケタになるのは、さらに23年後の昭和40年のことであった。その年1年間の大幅な増設で、普及率は県下一となっている。


【68】近世の原木村

 ばらき村の村高は幕末で271石余、その他に宝成寺領21石余、妙行寺除地(じょち)2石余が含まれる。ここでいう除地とは年貢を納めなくてもよいと認められた土地である。おそらく妙行寺の境内が、年貢免除の対象地となったのであろう。それにくらべて前者の宝成寺領は、寺の所有する寺領であり、これは当時の市川では大規模な経営を行っている百姓の所有者高に匹敵する。
 さらに天保15年(1844)に11石、嘉永4年(1851)に10石、安政6年(1859)に11石、慶応3年(1867)に25石、以上57石余が改増(あらためまし)されている。この改増とは、おそらく改出(あらためだし)という江戸時代の検見法の一種で、湖沼、池、堀、川端などの新田に対し、検地役人が推量をもって収穫高を定め、多くは無届の新田であったが、村役人の見込み高によるもの、といった意味であろうか、もしくは新田検地によって村高に入れられた高のいずれかであろう。
 この改増の対象地は原木村の地字をみると、東卯新田、五人受、東未新田、東丁卯新田、亥新田、辰新田、西亥新田、八人請などといった場所をさすのであろう。原木村の総村高は353石余となり、江戸時代の村では中の小といった規模の村といえる。


【67】江戸川の渡船

 「江戸川の渡船」といっても風流な“矢切の渡し”のことではない。
 承和2年(835)というから、9世紀前半、平安時代の半ば位の話である。『類従三代格』という古代の法例集の伝える、6月29日付の太政官符は、東海道・東山道という要路の途中にある河川の交通上の不備を嘆き、諸国に命じて、あるいは「浮橋」を、あるいは「布施屋」(避難小屋)を設けさせた。そして、大井川や隅田川等とともに「下総国太日(ふとい)河」に「渡船」が新たに2そう増やされた。「太日河」とは江戸川の旧名である。
 ところで、官符はこの川を「崖岸広ク遠ク、橋ヲ造リエズ」とするが、今の江戸川の風景からはやや想定しがたく、むしろ水の豊富なあばれ川と見るべきかもしれない。
 また、船の増加には別の意味があった。古代の東海道は当初相模から海路で上総―下総と設けられていたのだが、8世紀後半に武蔵国を不自然な東山道から切りはなし、武蔵―下総という陸の道に変更された。ここに渡河の重要性も増すわけである。
 官符は河辺に集り来る担夫が闘乱を常とし官物(年貢)の流失を嘆いているが、それは支配者の道であったこれらの道を“群盗”と称されるアウトローたちがあばれまわる前兆でもあったのである。


【66】梨鉄砲

 実りの秋を迎え、市川産の梨も店先に並ぶ季節となった。
 「市川梨」は古くは八幡や鬼越を中心とする特産物であったが、宅地化の波を受けて、現在では大野や大町など市の北部に生産地が移ってきている。
 梨の生産は、収穫後の施肥・土壌改良からはじまり、枝の剪定、開花後は受粉、摘果、袋かけ、病害虫の防除と、手がかかる。こうした作業は昔も今も少しも変わっていない。
 柏井の古老の話によると、子どもの頃には、5月から6月にかけての摘果の時期になると、摘果後の捨てられてしまう梨の実を集めて、梨鉄砲を作ったという。梨の実の小さいものを選び、その大きさに合わせて手ごろな竹をさがし、この竹で筒状の鉄砲を作って、梨の実を玉にして飛ばしたという。
 「なんだって考えてさ。今みたいにお金なんかないんだから」と老人はいうが、捨てられてしまう梨の実にすばやく目をつけ、たくみに利用する子どもの智恵がそこにあった。
 梨の生産が少なくなり、子どもの遊びが多様化している現在、梨鉄砲で遊ぶ子どもの姿はもう見られない。


【65】民具再見 まこも馬

 8月は月遅れの盆月である。
 一年のうちでも多くの行事が集中して行われるのが正月と盆で、市川市内でも月遅れの盆行事がいろいろ伝えられてきている。
 新盆の家では、1日早々に庭に高灯籠が立てられ、新盆みまいが行われる。
 7日には、まこもで編んだ馬と牛を向かい合わせに飾ったり、屋根に投げあげたりする。13日には迎えの団子を用意して、仏迎えが行われる。15日の仏送りまで様々な供え物がなされるが、市川では「正月は男で盆は女」といわれ、盆の間のお供え物作りは女の役目とされている。
 さて、7日に作るまこも馬であるが、これは迎え馬とか七夕馬とも呼ばれ、ご先祖様の乗り物と考えられている。
 日本の年中行事には、しばしばわら馬が登場し、七夕馬もわらを主材とする地方もあるが、房総一帯や利根川流域各地ではまこもで作られてきた。文政13年(1830)の『嬉遊笑覧』には「下総千葉あたりには7月7日に小児まこもを以て馬を作り、緒をつけて首にかけて馬を腰に付けて遊ぶ」とある。
 今ではまこも馬を目にすることは少なくなってしまったが、馬の首に縄をつけてひっぱって遊んだ思い出を、目を細めて語る古老は多い。


【64】水泳場

 暑い夏を迎えると、涼を求めて海水浴などに出かけていくが、かつては身近かにある水路や川が恰好の水泳の場であった。
 昭和12年に夏に、江戸川畔に水泳場が開設されると新聞が報じている。それによると、当時の江戸川は流れは急だが水は清く、水泳施設は絶対安全で、しかも学校式の統制によって監督は厳重にするということであった。大人10銭、小人5銭で、納涼台使用料も同額で、別に定期券(80銭)も用意された。期間は7月10日から8月20日までで、午前10時から午後4時までで、毎日開かれるというものであった。
 江戸川は、また水泳以外に釣や船遊びのほかに、夜は花火大会や納涼トーキーの夕べの舞台として、市内外から集まる人々に心地よいひとときを提供していたものであった。
 ところで、江戸川といえば大正2年に栗山の渡しで起きた東京・湯島小生徒の水難事故が、3人地蔵の由来としてよく知られている。それから22年後の昭和10年に、犠牲者に対する慰霊灯籠流しが湯島小と真間小の共催により所も同じ江戸川で実施された。
 水の恋しい季節ではあるが、水が与えてくれる快適さの裏側には底知れないほどの恐ろしさを秘めていることを、忘れてはならない。


【63】近世の高谷村

 高谷村は、明治政府が旧幕官僚に書かせた『旧高旧領取調帳』によると、代官支配所(=幕府直轄地)として179石余、鷲太神社除地3石余、安養寺除地2石余とある。
 ここでいうところの除地(じょち)とは、江戸時代の朱印地(しゅいんち)、黒印地(こくいんち)などで、何らかの理由により幕府、諸藩から免租を認定された土地であり、社寺の境内などがこれにあたる。朱印地に次いで重要な土地であり、墓所、死馬捨場などの貝捨場とは異なる。のぞきち、よけ地等ともいう。ここでは一ケタどまりの除地高であるが、ふつう10石以上になるとかなりの寺社であるといえる。
 ついで再び61万余の代官支配所管轄の高記載がある。これはおそらく明治9年(1876)に八幡村と交換したからでの記載であろう。『旧高旧領取調帳』を参照すると、八幡村の項には「明治9年高谷村ヨリ入ル」、高谷村の項には「明治九年八幡村ヘ入ル」ということから、それぞれの村が61石余の土地交換を行った結果であろうことは明らかである。その後こうした経緯がどうなったかは、はっきりしないが、明治政府は当初こうした村の切り裂き・編成がえを全国的にさかんにおこなったので、この時期の村はかなり動揺していた。


【62】国分寺幻想

 古代の国分寺は一国の宗教の中心だろうが、中世のそれは“荒れ寺”のイメージがある。
 説教『さんせう大夫』の描く丹後国分寺は、大夫のもとから必死に逃げるづし王が隠れるところだが、彼をかくまうのは1人の妖しい“お聖”のみ。聖は神下しという呪術によりづし王を助けるが、それは国第1の寺というよりは、民衆のためのアジール(避難所)の感がる。聖はづし王を京の朱雀権現堂まで送り届けるが、聖域天王寺でのづし王の蘇生にはつき合わない“闇の国の人”である。
 室町時代の処世論『世鏡抄』は「侍之大法公義之事井御教書」として、侍が倫旨・院宣という尊い御文を戴く際には「源平藤橘ノ家ナラハ直ニ頂戴セヨ。其外只ノ氏人ナラハ国分寺ニ置テ戴ケ」としている。
 世は乱世、侍の世に何の倫旨・院宣か、と思わぬでもないが、これも侍の“大法公義”の一つであった。室町時代から200年もたたぬ間に、かような田舎侍などひとひねりの“公義”=織豊政権が世に出るなど思いもしないのであろうか。
 さて、市川にあった中世の下総国分寺には、妖しげな聖やおめでたい田舎侍が出入りしていたのかどうか。初夏の一夜に幻想をめぐらせてみるのもよいだろう。


【61】杉原荘介

 市川市には埋蔵文化財が多い。周知遺跡だけでも148ケ所もあり、「台地上は皆遺跡」とさえいわれている。
 こうした市川に住み、史跡の指定や文化財の保存に力を尽くした人物に考古学者の杉原荘介がいる。
 杉原荘介は、大正2年日本橋小舟町の和紙商の三男として生まれ、大正12年10歳のおり、関東大震災のために市川の平田にすまいを移した。10代の頃から姥山貝塚や堀之内貝塚などの発掘に参加し、昭和7年19歳の時には、「下総葛飾郡国分村須和田弥生式遺跡研究摘要」を『武蔵野』に発表。これ以後「須和田式土器」は関東地方における弥生時代成立期の基準となる資料として知られるようになった。
 積極的で強引ともとられるような行動力で多くの遺跡調査に従事した。登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘で中心的な役割を果たしたことはあまりにも有名で、弥生文化、先土器文化研究の第一人者として世界的にも知られている。
 このほか、市川市の文化財保護審議会委員を委嘱されてからは、堀之内貝塚、姥山貝塚、下総国分寺・尼寺跡、曽谷貝塚の5遺跡を国の史跡に、須和田遺跡をはじめ3遺跡を市の史跡に指定するため、自ら土地所有者に交渉するなどして保存に努めた。昭和58年69歳で死去。


【60】民具再見 お櫃台

 これから夏にかけては食物がいたみやすい時期になる。
 今では炊いたご飯をお櫃に入れておく家庭はあまり見られなくなっているが、お櫃を使っていたころには、夏、飯が饐すえるのを防ごうとする工夫がいろいろみられた。
 竹で編んだ籠を使ったり、お櫃の蓋を竹製のすだれにかえたりしたが、お櫃台を用いたのもその工夫の1つであった。50センチメートル程の3本の角棒とそれを支える2本の棒が上と下に各々あてがわれている。この横に渡された棒の上にお櫃をのせるのである。
 仕組は実に簡単なものであるが、お櫃は直に置いたときにくらべて風通しが良くなる。夏の間、炊きあげたご飯を少しでも長くもたせるために考えだされた身近な工夫であった。
 また、この時期は虫などの活動が盛んになるときでもある。そんな虫たちからご飯を守るためにも、お櫃台は一役かっていた。
 台の脚である3本の角棒をそれぞれ水を入れた小皿の中に立てるのである。こうしておくと、台の上に置かれたお櫃の中へ虫がはい上がれない。
 電化製品や便利な道具類が今のように普及していない生活の中では、今よりも人の智恵がきめ細かく生かされていたともいえよう。


【59】写真

 昭和14年の暮に、市川市と観光協会の主催による懸賞写真の募集が行われた。市勢要覧や観光案内用パンフレットに使うための写真の募集が目的であった。
 応募者は総数34名で、101点の作品が寄せられた。審査の結果、当選者には賞金が贈られたが、1等は「霧の江戸川」で、それ以外にも江戸川をテーマとしたもの、寺社に関するもの、郊外の風景などがあった。
 豊かな自然に囲まれ、名所旧蹟に恵まれた東京の近郊都市市川のイメージが強いが、戦争の影響が市民生活にも現われはじめたころのことであった。
 写真というと今では誰でも自由に撮ることができるが、当時は何かと制限があった。
 軍機保護法が昭和14年に改正されてビルや高台からの俯瞰撮影が禁止されている。また16年には、流行する街頭写真スナップ屋に対し、警視庁が自粛を求めるなど一段と規制がきびしくなっていったのであった。
 国府台に軍隊が置かれていたここ市川では、カメラを下げて歩いているだけでとがめられたものという。当時の市川の風景写真が多くないとすれば、原因はこのあたりにあるのだろう。ここにも、明治時代以来の軍隊の町であった市川の事情をうかがうことができる。


【58】近世の曽谷村

 いまは子供の数も昔よりは少なく、1人むすこ・1人むすめの時代が到来し、この傾向は今後ますます増加していくであろう。こうなると、後継ぎに関する問題は近い将来において深刻化することは必至である。
 ここに1通の「覚」と記された文書がある(『市史六巻』上)。年代は宝暦8年(1758)、今をさかのぼること228年である。内容は、曽谷村の市郎兵衛が息子六之助を柏井村の伊兵衛に養子にだしたことを述べたものである。文書の仔細は「わたくしの伜六之助のこと、貴殿へおもらいなされ候につき、おのぞみにまかせさしすすみもうし候、しかなる上は、貴殿方にて未々家をおもたせなされ候共、またはいずかたへ聟などにつかわされ候共、貴殿おかってしだいになされべく候、さしすすみ候上は、こんごいかようの儀ござ候共かまえござなく候、なおまた御心付金として只今壱両三歩くだされ候間たしかに請取おきもうし候」、とである。
 市郎兵衛が口べらしのために養子にだしたのか、伊兵衛方で後継がなくて支度金まで準備してもらいうけたのか、その詳細は知らない。おそらく後者ではなかろうか。そうなると、後継者問題は前言あらため、超歴史的な問題となってしまうのだが。


【57】世直し

 稲妻やひと切づつに世が直る   (『おらが春』)
 春の雷でもあるまいに、およそ今の季節にふさわしくないこの句の“世”とは、稲の作柄のことである。“世が直る”とは更まる・更新される、の意であり、稲光りがよくする年は豊作だ、という様に、稲妻が稲の生命力を再生すると信じられていたことが、一茶にこの句を作らしめた。(荒木博之『やまとことばの人類学』)
 “世直し”というと幕末の一揆を思いうかべるが、その背後にある人々の意識は、まさに自らの生きる世界の更新であり、それは時代を区切ることが不可能なほど、日本の土壌に深く根ざした“思想”である。
 建武元年、若狭国太良床の百姓等は「明王聖主」(天皇)の代替わりであるから、と称して地頭の非法を糾弾し、政治の更新を領主東寺に要求した。支配者の交替は、中世の百姓にとって恰好の“世直し”のチャンスだったのである。
 室町時代、近畿各地で“徳政”要求の風がふきあれるが、これも本来あるべく姿への更新を願う人々の大きなうねりとしての“世直し”である。
 だが市川のある東国となると、これらの動きはなかなかみいだせない。これをいかにあぶりだすかは、新しい歴史学の大きな課題の一つである。


【56】境川浪右衛門

 歴史博物館の収蔵資料のなかに1枚の油絵がある。これは幕末から明治初期にかけて相撲界で活躍し、県内で最初に横綱になった境川浪右衛門の肖像画である。
 彼は天保12年に高谷に生まれ、江戸新川の酒問屋に奉公しているところを見い出されて相撲界入りした。安政4年に先代境川の弟子となり、慶応3年3月場所で増位山大四郎の名で西前頭6枚目に入幕。その後も出世は早く、明治元年冬、小結に昇進、翌2年4月に関脇となり、2連覇して、翌3年3月に大関になり、先代の名を継ぎ境川浪右衛門となった。身長170センチ、体重128キロ、やぐら投げを得意としていた。
 現在のように力士の最高位として「横綱」が番付面に記載されるようになったのは、明治23年5月場所の西ノ海からで、それ以前は選ばれた大関のみに与えられた称号であった。
 境川が京都五条家から横綱を許されたのは、明治9年12月であり、36歳のすでに晩年にさしかかってのことであった。明治14年1月引退。幕内生活15年であった。
 弟子のめんどう見もよく、信望の厚かった境川も家庭的には恵まれず、明治20年9月16日、49歳の若さで世を去った。


【55】民具再見 桶

 桶と人のかかわりは実に幅広い。
 台所で用いる洗い桶、米とぎ桶、半きり桶、洗濯にはたらい、量を計る時には斗桶、同じ形態でも水を運ぶのが水桶で、下肥用は肥桶、そのほか風呂桶、手桶、片手桶など形態や用途からいろいろに名付けられた桶がさまざまに使われてきた。赤子を入れるために桶いずみを用いた地方もあるし、人が最後に世話になるのが棺桶といった具合である。
 プラスチック製品などの普及により急速に姿を消しつつある桶だが、市川でも生活のいろいろな場面で利用されてきた道具である。自家製の味噌や漬物をする際には、仕込み容器であると同時に貯蔵容器でもあった。
 運搬や貯蔵を目的とする桶には底が深い傾向にあるのに対して、物を洗ったり、鮓をかきまぜたりするのに用いる桶は、口が広く底が浅い。半切とか半切桶と呼ばれるものである。
 かつて行徳で塩業が盛んであった頃には、塩田で働く人々の昼食時に、円周1丈4尺(約4.2メートル)もの大きな半切桶が用いられていた。この桶に盛りつけた飯を椀にとって食べるのだが、忙しい時などは飯に海水をかけてかきこんだといわれる。
 塩田で、玄蕃桶、塩場桶も欠かせぬ道具であった。


【54】近世の国分村

 国分村の村高は、近世の初め頃、約680石で、中規模であった。村高は、秀吉が全国的規模で田畑の測量を実施し決定した米穀の数量だが、その村の力を示すとともに、年貢や諸役の課税対象基準とされたものである。
 国分村の支配のあり方をみてみると、貞亨3年(1686)には3人の旗本が領主であった。
 「乍恐(おおそれながら)返答書ヲ以申上候、用水之出入」文書(市史第六巻上)によると、大久保甚兵衛、鵜殿新三郎、関八郎右衛門、本多紀伊守、神尾善次郎なる5名の領主名が記されている。
 さらに、江戸幕府の編さんによる大名・旗本・幕臣の系譜を記した「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)をみると、本多紀伊守は正保2年(1645)生まれ。承応2年(1653)閏6月6日はじめて厳右院(徳川4代将軍家綱)に謁見する。元禄元年(1688)11月14日下総相馬郡に1000石を有し、14年に葛飾、上総国望陀(もうだ)、市原の3郡のうちの村を領地とする、とある。この葛飾のなかの1村が国分村なのである。
 その他の領主の系譜をも調べることによって、近世の国分村が複眼的にあぶり出されるのである。


【53】船橋に海賊がいた?

 こう聞くと、昔、今のららぽーと付近にあった船橋ヘルスセンターの“海賊船”をなつかしく想い出す人がいるかもしれない。が、話は遠い中世のことである。
 東京湾は現在も船舶の往来が激しいが、中世においても重要な港が各地に点在する海の道であった。特に相武方面と房総諸国を結ぶには、三浦半島の観音崎と房総の富津岬を結ぶのが最短距離であることは今も変わらず、その内湾に武蔵品河・神奈河・六浦といった港が、荘園の年貢や、文化の交流に果たしていた役割は大きい。
 戦国時代になると、この東京湾内にも“海賊”が横行するようになる。海上物資の掠奪を旨とする海賊の出現は、それだけ海の活動が活発になったことも示しているが、その中で松戸市の本土寺が残す過去帳の、文明から明応期(15世紀末から16世紀初頭)の頃の記事に「左衛門太郎、フナハシ海賊ニテ被打、八月朔日」という記載がある。ここから、船橋が海賊の活動の一つの拠点だったことがうかがえるのである。
 中世の船橋についてはこれ以上何もわからないが、子供心に船橋のいくぶん荒々しい海辺に、あの海賊船が妙に似合っていたのを覚えている者にとって、この事実は何かしら因縁じみたものを感じさせるのである。


【52】塩谷 賛

 幸田露伴の弟子であり、露伴研究で知られる塩谷賛は、大正5年8月東京に生まれ、本名を本橋利彦といった。
 彼は、終戦後間もない昭和21年1月、空襲で小石川の蝸牛庵を失ない病の床にあった露伴に市川の菅野の家を世話し、翌年7月に露伴が80歳で亡くなるまで、身体の自由のきかない露伴のめんどうを見ながら口述筆記をするなど、献身的な協力をした。当時の生活については、幸田文の随筆『すがの』や小林勇の『蝸牛庵訪問―露伴先生の晩年―』などによっても知ることができる。また、露伴の晩年の大事業である『芭蕉七部集』評釈は、塩谷の口述筆記によって昭和22年3月に完了し、「語句の解釈を主眼とした尋常のものではなく、芭蕉の芸術境とわが芸術境を対決させるといった、非常な深みのあり批評」(柳田泉)と高く評価された。
 露伴が亡くなってからの塩谷は、露伴の住んでいた家に転居し、『露伴全集』(岩波書店)の編集に従事した。この全集刊行中の昭和35年に失明。しかし盲目の中で露伴の評伝の執筆をはじめ、昭和40年から3年をかけて『幸田露伴』を中央公論社から出版した。これによっって彼は読売文学賞を受賞している。
 昭和52年5月、62歳の生涯をとじた。


【51】民具再見 膳

 膳は、食事に際して銘々の食器や食物を載せるのに用いる台である。
 足のないもの、足付きのもの、箱形になっているものなど、膳といってもその形は実に多彩だ。足の高いものは高足膳と呼ばれる。また、その足の形によって猫足膳、蝶足膳と称するものもある。たとえば猫足膳は、4本の足がそれぞれ中ほどでややすぼまり下が円みをおびて、丁度猫の足に似ているからという。江戸時代に書かれた『守貞漫稿』の膳の項にも「子コノアシニ形似タル故也」と記されている。この膳はもっぱら、祝儀、不祝儀を始めとする特別な場で用いられてきた。
 一方、日常の生活の中で使われたものに箱膳がある。1辺が30センチ前後の四角な箱で縁の付いた蓋が付いている。箱膳の中には、飯わん、汁わん、小皿、小鉢、箸が入れられていた。食事の時には、蓋を裏返して箱の上に置き、そこに食器類を並べて食べる。食べ終わると、わんの中に湯を注ぎ、箸で洗ってその湯を飲み、食器類を箱膳の中に納めるのである。膳も食器も各自決められていた。
 日常の食事に箱膳でない足の低い膳を使ったという話も聞かれ、いずれにしても食卓以前、家庭での食事は銘々が膳に向うものであった。膳から食卓への移行は、食事様式の大きな変化といえよう。


【50】手児奈人形

 昭和11年3月、かねてから建設中であった市川小学校の新校舎が完成した。同校では、これを記念する教育展を2日間にわたって開催するための準備が進められていた。
 図画や書き方と並んで郷土人形というものが出品されたことに目をひかれるが、それは、市川小で学童の郷土教育と郷土の名勝や伝説を広く紹介するため、児童の手による人形の製作を進めていたものである。
 人形の主題には真間の手児奈が選ばれて手児奈人形と名づけられ、手工科担当の訓導の指導のもと、高度科の男女300余名が製作にいそしんだ。
 工房にあてられたのは手工室で、記念展までに1000個の人形をつくって即売も行う計画があったという。
 さらに、千葉県主催の農村工芸品試作即売会が開かれることになったため、市川市の農会もこの催しに参加することになり、この市川小の手児奈人形をはじめ、その他の郷土土産品や農民芸術品等の試作が協議されたりした。
 このように、市川の新しい名物を目ざしてつくられたこの人形ではあったが、残念ながら現在では実物を見ることがない。が、わずかに当時の新聞の伝えるところによれば、万葉集にうたわれた古代の美が継橋にたたずんでいる姿を描いたものという。


【49】近世の大和田村

 天保13年(1842)に書かれた「村鑑明細書上帳」(むらかがみめいさいかきあげちょう)(『市史』第6巻上)を見ると、大和田村は元禄、亨保、延亨、安永とそれぞれ4回にわたって検地がおこなわれたことがわかる。
 当村は天領のため幕府の検地役人名がわかる。たとえば、亨保期では、小宮山杢之進(こみやまもくのしん)なる人物である。彼は太宰春台の門人として漢学、経済部門で有名であり、いわば学究派タイプの幕府役人であった。
 また、延亨期(1744年頃)には神尾若狭守春央(かんおわかさのかみはるひで)の名がみえる。彼は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という方言をおこなった人物として有名である。また彼は寛延2年(1749)に笠間稲荷で有名な笠間藩領で蜂起した百姓一揆の鎮圧をおもてだって叱咤激励(しったげきれい)したことでも有名な幕閣である。大和田村の1点の文書をことこまかに追ってみると、日本歴史上の事柄がわかってくる。
 さて、大和田村は人家の多いところであり、かなりのにぎわいをみせていたようである。村には荒物屋が2軒、薪(たきぎ)商売が4軒、肥商売が3軒、そのほかにも果物屋や大工さんも住み、いわば近世市川のダウンタウンであったようである。


【48】浅間山噴火と平忠常

 天仁元年(1108)7月浅間山が噴火した。当時の公家の日記『中右記』に「国内ノ田畠コレニヨリ已に以ッテ滅亡ス」とある様に、上野国を中心に下野・下総・常陸の一部にわたって降り積もった火山灰は、平安時代、営々と人々が耕してきた田畠を一瞬にして埋めつくした。
 だがこれより以前、市川付近は既に荒廃にさらされていたと考えられる。長元元年(1028)、平忠常は安房国可惟忠を殺し、房総三国を荒らし廻り、下総守為頼は「安房・上総・下総ハ已に亡国ナリ」(『小右記』)と嘆き、上総国などは2万町余の本田がわずか18町になってしまったという。11〜12世紀前半の東国は荒廃の極にあった。
 だが、ここから、“大開墾時代”と呼ばれる時が到来する。東国各地に荘園成立のラッシュが続き、後世に連なる中世武士たちが発生してゆく。東国の中世は荒廃の中、力強いくわの音をゆりかごに生まれる。
 国司は田畠の復興を「公力」=王朝政府に委ねたが、もはやその力は政府になく、権門貴族の私領・荘園が成立してゆくが、開発の主役は武士、もっと正確にいえば荒廃地にとどまり耕作を続けた百姓だろう。北関東では火山灰に強い畠作に切りかえられてまでも耕作が行われた。その苦労を思わずにはいられない。


【47】西久保弘道

 西久保弘道が菅野に居を構えたのは、大正5年のことである。地方官を歴任し、北海道長官から警視総監となり、退官後に貴族院議員となった53歳のことであった。
 弘道は、文久3年(1863)に佐賀県に生まれ、明治28年に東京帝大法科を卒業して内務省に勤務し、その後が前述したような輝かしい経歴を持つ。その彼が第11代東京市長となったのは、関東大震災後の復興事業が真っ最中の大正15年10月であった。大正時代最後、昭和になって最初の東京市長となったのである。
 弘道が市長となった当時の東京市政は、市会議員で構成する市参事会の権限が強く、市会による市長選出という間接選挙の形態をとっていたために、市長の在任期間が短く、行政手腕を発揮しえない状況にあった。こうした中で、昭和2年4月政友会田中義一内閣の発足によって、民政党系の弘道は政友会系の市会議員による不当なつき上げを受け、市政が政争の渦にまき込まれての市長退陣という歴史的事件へと発展したのである。弘道はこの年の12月に退任。在職期間1年2ヶ月という短さであった。
 昭和5年、永住の地と決めた菅野の自宅で67歳で亡くなった。現在、葛飾八幡宮境内の公民館に彼の肖像画やデスマスクが保管される。


【46】民具再見 飯櫃

 飯櫃は炊きあげた飯を釜から移して入れておく容器で、オヒツとかオハチと呼ばれている。一般には竹または銅のたがをかけた桶である。
 市川では、円形でその蓋に縁をつけた飯櫃がもっぱら使われていたようだか、楕円形で蓋に縁のないサンブタのものを用いていた地方もある。
 飯櫃に付随するものとしてオヒツイレがあるが、これは冬の寒い時期に飯が冷えないように用いる保温容器である。オヒツがすっぽり入る大きさに藁ですきまなく編んだもので、日本人が培ってきた藁の文化の一端をみることができる。
 一方、飯が饐えやすい夏季には、オヒツの蓋を簾にかえたり、竹製の飯籠を用いたものである。竹で編んだ容器の通気性を見事に利用したもので、飯から発散する水気が外に出るので、夏でも朝炊いた飯が夜までいたむことなく食べられる。編み方、形はことなるものの同様の機能をもつ籠は、インドネシアなどでも生活の必需品として活用されている。高温多湿な地域で米を主食とする民族の知恵の共通性がうかがわれよう。
 今や保温装置をほどこした電気釜やガス釜が普及し飯櫃は姿を潜めてしまったが、それと同時にカマメシ(釜から茶碗に直接飯を盛る)を賤しむ風も過去のものとなった。道具の変化とともに、心持ちの移り変わりが興味深い。


【45】バス停留所

 鉄道は駅がなければ営業できないが、バスははじめ停留所なしで運行され、乗客が道路で手をあげれば、どこででも停車していた。
 昭和10年になって、当時の市域内に初めて停留所が設けられたのは、交通事故防止が直接のきっかけであった。
 かつて千葉県内の道路は、「馬車の運行はもとより、風雨雪のときなどは一人立の歩行する困難な」個所が多かった。このため、大正、昭和にかけ、国・県道の整備が進められていったのである。
 その一方で、明治末から漸増してきた自動車が、関東大震災を契機にしてにわかに増加の傾向を示し、昭和に至って一層拍車が加わっていった。昭和9年における自動車台数は全国で11万3000台、県内で3200台を数えるほどであった。
 自動車はまた、貨物輸送だけではなく、乗合自動車として使われ、スピードある輸送機関としての利用が盛んになり、昭和初期から県下全域にわたって輸送網の整備が図られていく。その陰では、人力車や馬車は減少の一途をたどっていった。
 自動車の増加は、交通事故の増加をもたらす結果となり、大きな問題に発展していった。警察でも事故防止対策に頭を痛め、自動車取締令の改正、自動車営業者の組織化、「交通安全デー」の設定などが次々と打ち出されていく。
 これらの対策の一環として、市内にバス停が新設されたのだった。その数は22で、国道沿いや駅前などに配置され、これ以外では自由に乗り降りはできなくなったのである。


【44】近世の加藤新田

 村高は約26石で、耕地面積は6町である。この村高は市川北部の村なら1人の農民で所持していてもおかしくない石高である。
 耕地の地味については、新田が行徳の海に面し、地字が東場・前場・上石垣場・南場・沖場と称され、いずれもかつての塩場(しょば)であったことをものがたる土地であるから、農作物には適さなかったものと考える。
 それでもわずかながらの耕地はあった。ではこうした場所の耕地はどのような規模で開発されていったのだろうか。いまここで明治2年(1869)の加藤新田「村鑑明細書上帳」から検討してみよう。
 近世の文書様式は明治維新をむかえるとすぐに近代の文書様式に改変されたわけではなく、大体は明治5年(1872)まで近世のかたちが踏襲されていたのが一般的である。
 村や村役人の制度もこの時期までつづくのであり、要するに、この明治2年の史料を使っても、近世の加藤新田をみることは十分にできる。
 では加藤新田の耕地開発の規模を年次ごとに追ってみよう。その高入れされた年代をみると、明和5年に4石、文政11年に2石、天保期に10石、弘化4年に2石(この年にかぎっては『旧高旧領取調帳』に拠る)、嘉永6年に若干というようにである。こうして村高を226石と結ぶわけである。
 加藤新田の耕地開発は、これまで紹介した8カ村の村とは異なり、小刻に小規模たるところに、海辺に面した新田の耕地開発のありかたを表現しているといえるだろう。


【43】将門の首

 今から約1000年も昔の天慶3年(940)4月、遠く下野国(栃木県)から首が2つ、京の都に送られてきた。当時、東国の諸国を疾走し、受領国司を震えあがらせた男、平将門の首である。京の王朝国家に対して、自ら新皇と名のり公然と反逆ののろしをあげた男の首は打ち取られ、今は京の東市に運ばれ、諸人の眼にさらされている。
 これは当時の公家の日記にある、れっきとした史実だが、将門の首はその後勝手に一人歩きを始めるようだ。はやくも同じ武人の世の中世南北朝期、首は3カ月も色が変わらず、眼をひらき牙をかみ、自分の五体を求めつづけたという伝説が『太平記』にみえる。さらに首は各地を飛びまわり、射おとされ、首塚・御頭神社などの伝承を残してゆく。この時空を超えた彼の“生命力”は、一体何なのか。
 ところで、市川にも将門伝説がある。現市役所の向いにある森は「八幡の薮しらず」と呼ばれ、将門七将伝説が関連する。また、大野にある市川五中の高台は、将門の城と呼ばれている。もちろん、伝説は伝説、史実にはほど遠いが、将門の個性の強烈さが、幾人もの彼をたえず生み落としてゆく。
 特に東国には、将門を慕う伝説が多い。東国の民の血が、彼に親近感を抱かせるのか。そういえば、彼の本拠地は下総国豊田・猿島両郡。当国の国府のあった市川と、何らかの関係を空想してみるのも楽しい。実際、将門の乱の基本史料「将門記」には下総国府の姿がわずかながら書かれている。
 当時の社会の1つの要としての国府、これを軸にして時代は古代から中世へと転換してゆく。


【42】紫烟草舎

 大正5年7月、北原白秋は妻章子とともに、市川真間の亀井院の仮寓から、小岩の「紫烟草舎」へと移り住んだ。白秋はここで1年余を過ごし、数多くの歌や詩を残している。
 紫烟草舎の建物は、6畳・8畳2間の木造平家建で、現在は国府台の里見公園に移築保存されている。
 移築に至った経緯は『江戸川区史(第三巻)』に詳しいが、それによると、白秋が移り住んだ当時は軍馬の乾草商を営む富田市太郎氏の離れとして、小岩村三谷にあったが、大正8年江戸川の改修工事に伴って、300メートル程離れた北小岩8丁目への移転を余儀なくされた。その後、機械部品の製造業を営む湯浅伝之丞の所有となり、住居として使用されていたが、昭和42年に再び江戸川の堤防改修工事のため取り壊されることになってしまった。
 このことは、新聞やテレビを通じて大きく報道され、所有者の湯浅氏のもとには、江戸川区の白秋愛好家をはじめ近隣の区や学校などから多くの寄贈依頼があったが、どれも移築場所の点で折り合いがつかず、結局は解体されて湯浅氏の移転先である市川市大野に運ばれた。その際に里見公園に移築してはどうか、との話が持ち上がり、昭和44年6月に着工し、同年10月15日に完成して現在に至っている。
 今年の1月、福岡県柳川市では白秋生誕100周年を記念して『白秋の文学碑』を刊行した。紫烟草舎の傍らに建つ歌碑もその1ページを彩っている。江戸川の対岸に移された旧居を白秋はどのような思いで見守っているのだろうか。


【41】民具再見 牛のワラジ

 春をむかえると農家の仕事は忙しくなる。市川は東京に隣接しているので、ネギや大根など野菜の栽培、出荷に追われる毎日となる。
 自動車の普及した今日ではもはや想像を絶することがあるが、市内の市場ばかりでなく、東京まで江戸川を渡って手車を引いて野菜を運んだ時代がかつてあった。東京は両国橋あたりまで、途中2度位休んで歩いたことは、古老の記憶の中にとどめられている。
 牛車を使うようになってからは神田・築地の市場まで運んだという。そんなとき使用するワラジは天気なら1足、雨が降ると2足では足りなかったそうである。行くだけで1足はだめになり、帰りには新しいものにはきかえてくることになる。
 ワラジは人だけでなく、牛にもはかせて行く。牛のワラジである。
 牛は馬のように蹄鉄をはめないので、市場へものを運ぶようなとき、ツメがへってかわいそうなのでワラジをはかせたのだという。これは、長さ14センチ、幅12センチ程のものである。
 ネギでも大根でも盛りになると出荷は毎日である。したがって、野菜の最盛期には、ワラジも毎日はきつぶされ、その消費量はかなりな数になる。
 牛のワラジも人のワラジも全て仕事が忙しくなる前に作りためておくものであった。冬3月(正月、1、2月)ノラのできない時期にせっせと作られた。朝から晩まで縄ない、ワラジ作りなどのワラ細工にあてられたのである。
 今日身近な存在ではなくなったが、牛のワラジは野菜の出荷を担う必需品であったといえよう。


【40】映画

 市川が市制施行した昭和9年ごろ、市内には2軒の映画館があった。市川三本松前の三松館(日活)と新田の松竹館(松竹)で、両館は東の松竹、西の日活と呼ばれて互いに競いあっていた。
 映画は、はじめ活動写真と呼ばれて明治中期から代表的な大衆娯楽であったが、昭和のこのころの映画界はトーキー化に反対する弁士のストライキが起るなど、一大転換期を迎えていたのであった。
 やがて日中戦争が始まるころから、この世界にも戦時体制の影が大きくのしかかっていた。政府は映画法制定により製作本数や興行時間の制限・シナリオ事前検閲などを実施していった。また一方では、戦意昂揚のための国策映画づくりも進められていた。
 大陸を舞台にした日支親善映画が両国のスター共演により人気を博したのもこのころのことで、その1つ「支那の夜」は大ヒット作であったが、この撮影には中国分のじゅん菜池も使われたともいわれている。
 ニュース映画の強制上映や戦線の記録映画が次々と配給されるようになる中で、映画館へ向う人の中には楽しみのためではない観客もあったと思われる。遠い戦場にある身内の安否は留守家族にとっては最大の気がかりで、戦地の様子を写す映像の中に夫や兄の姿を追い求める光景も多くみられたにちがいない。
 昭和15年暮れの新聞は「三松館では市内戦没者遺族に今後毎月1回づつ招待券を発行することになった」と伝えている。招待券を手にした遺族にとって、映画はどんな意味をもっていたのであろうか。


【39】近世の鬼越村

 当村には2通の村明細帳が伝存している。1通は寛政四年(1792)「下総国葛飾郡行徳領鬼越村明細帳」であり、もう1通は時期が約10年さがって亨和3年(1803)の「御郡代中川飛騨守様御廻村ニ付村方明細帳」(『市史』第六巻上)である。
 寛政4年文書には、延宝5年(1677)に検地がおこなわれ、村高61石余がうちだされている。なお、「朝比奈弥太郎様御知行と入会田畠壱枚交リニ有之候」と記されているが、旗本朝比奈氏の知行高は掲げられていない。鬼越村には2人の領主がいたことだけはたしかであり、それは幕府と旗本ということになる。このようにひとつの近世村のなかに2人以上の支配者が存する村を相給村(あいきゅうそん)と呼ぶ。
 亨和3年文書を見ると、朝比奈氏の知行高614石余があきらかとなり、鬼越村の総石高は675石余であったことが判明する。
 また鬼越村農民の最大の関心事であった田方用水について見ると、寛政4年文書では「道野辺村林水与申所々流来リ八幡宿境川菜洗処登申所々相分引取申候」と書かれ、亨和3年文書では「水元道野辺村囃水与申所々流出八幡宿境菜洗所与申所々相分引取候得共、旱魃之砌(みぎり)者届兼申候」となっている。前文書と後文書を見較べてみると、「林水」と「囃水」との字句の違いはあるにしても、現在の鎌ヶ谷市の囃水清水であることにはまちがいない。昨年訪れたときにも清水が湧き出ておりアヒルが3羽泳いでいた。近世の鬼越村の湧水点をさぐることも当村の理解を深める上で大切であろう。


【38】手児奈

 現在の真間の地から最短距離を通って海に出ようとしても約7キロの道のりがある。しかし、遠く万葉の時代には、真間川が現在よりはるかに広く入江状になり、国府台周辺の低地にまで海が深く入り込んでいた。「手児奈伝説」はこうした1200余年も昔の話である。
 手児奈については、古来さまざまな説がある。実在したかどうかについてもわかっていない。一般的には、真間に住んでいたという美しい娘の美しさ故に、自らの命を絶たなければならなかった悲しい顛末が今日まで伝えられている。一方、手児奈は「巫女的な女性であった」「東国地方の女性の愛称である」などが代表的な説であるが、いずれにしても高橋虫麻呂や山部赤人による『万葉集』の歌がその発端となっている。
 こうした背景には当時の市川が国府の所在地であり、都から文人の往来する土地柄であったことがあげられる。彼らは、この地を訪れ、この地方一帯に伝わる歌謡(手児奈伝説)に関心を持ち、それを今日に伝わる香り高い文学作品に結晶させたのである。今日わたしたちが描く手児奈像は彼らの創造力によるところが大きい。
 『万葉集』という日本最古の歌集の影響を受けて、手児奈は中世から現代に至るまで数多くの歌や小説の題材となってきた。
 現在、真間には手児奈霊堂、真間の井、継橋がある。どれも後世になって作られたものであるが、訪れる人は多い。手児奈伝説を受け入れる下地が現代のわたしたちの心の中にある。


【37】民具再見 ヤツクチバシ

 正月15日は小正月と呼ばれ、作物の豊作を予祝する行事や、豊凶を占う行事などが全国各地で、さまざまに行われる。
 市内でも15日を中心とした行事は伝承されてきている。ヤツクチバシもその一つである。これは主に栗の小枝を用いて作られる、長さ20センチメートル程のものである。
 15日の朝アズキ粥を煮き、あらかじめ作っておいたヤツクチバシを12膳(24本)たばねて粥の中に入れる。こうして粥を付け、1升瓶の中に立てかけて神棚に供えるのである。
 小正月に神聖な棒を用いる習俗は広く行われており、形状はいろいろであるが、この棒に一種の呪力を認め、粥箸にしたり、女の尻を打って多産を願ったりする例がみられる。ヤツクチバシも本来粥の付き方によって豊凶を占うために用いられたものと考えられるのではなかろうか。
 粥の付いた棒を苗代や水口にさして虫除けの呪いにする地方もあるが、市内北国分では、神棚から下げたヤツクチバシを家のまわりの角々にさしておいたという。ナガムシ(蛇)が家に入らぬようにそうするのだといわれ、やはりこの棒に呪力を認める姿がうかがわれる。
 今ではヤツクチバシを作って神棚に供える家も数少なくなってしまっているが、これは新しく迎えた年の豊かなみのりを祈る心が生み出し、伝えてきた行事であった。
 直接生産にかかわる道具ではないけれど、ヤツクチバシは人々が祈りの心を託した信仰の民具といえよう。


【36】自給製塩事業

 昭和20年9月、西日本を暴風雨が襲った。枕崎台風である。多数の犠牲者を出したこの台風は、九州地方の塩生産地にも多大な損害を与え、戦後日本の塩受給の危機を一段と増大させたのである。
 塩不足の不安は昭和16年以来のことで、増産と輸入に苦しんだ数年間であった。供給の減少は家庭用よりも化学薬品等の原料用に大きな影響が現われるため、軍需用が増大すれば国民生活は苦しくなるのは当然の結果である。
 昭和17年1月には、塩の配給制度が実施されるに及んで、割当量を通帳による以外に購入できなくなってしまった。
 こうなると、海岸地帯に住む人々が身近にある海水から塩を自ら製造したいと考えるようになるのも、ごく自然な要求であった。この声にこたえて、政府は自家用塩製造を許可するが、あくまで例外的なこととして厳しい制約を課した。この措置は専売制度の破壊を意味していたからである。
 ところが、情勢がさらに悪化すると、補助金を交付してまでも増産を奨励するという皮肉な事態へと発展していった。名称も、国民自らが供給を図るべしとの意味から自給製塩へと改められた。昭和20年3月のことであった。
 終戦を経て、時代の脚光を浴びた自給製塩は乱立時代を迎えた。かつての塩生産地の行徳町で、自給製塩事業を施行し特別会計を設置したのもこの時期のことだが、これも長続きはしなかった。
 戦後経済が一応の安定を取り戻しはじめると、規制へと切り換えられて昭和24年に制度廃止、市域内でも塩焼きの煙が止まった。


【35】近世の中山村

 江戸時代の村は、現在の市や町の大字にあたる地域である。亨保19年(1734)に幕府が設定したモデル村落の規模は、村高200石、面積22町5反7畝、家数24軒、人口120人とし、人口の1割に当る12人が職人・商人であったとしている(村上直「多摩の村明細」シリーズ『多摩のあゆみ』29号)。
 70年のちの亨和3年(1803)中山村の規模と比較すると、当村は村高111石余、面積17町8反9畝、家数5軒、人口16人(『市史』第六巻上)となっている。この数字だけからみると、亨保19年の幕府設定のモデル村落の数字とは比較検討するすべもない村としてうつってしまう。
 しかし、中山村のなかをもうすこしこまかにながめてみると、中山村は「村内法華経寺入会二面」とあり、村高111石余のほかに寺領50石余(但、面積下記、そこで約8町としておく)が高入されていた。その他、寺領分の家数62軒、人数260人、馬15疋とあり、これらを含めて中山村分ち合算すると、村高161石余、面積およそ26町、家数67軒、人口276人となる。
 前述した幕府モデル村落の村高200石と面積22町の数字と比較すると、中山村の場合は約40石ほど耕地のもつ生産力は低かったということになってしまう。だが村高161石余の小規模な村にしては馬数が15疋と、その多さにおどろく。つまり中山村農民は馬をつかって、佐倉街道八幡宿まで800メートル、船橋宿まで4000メートルに位置する当村の地の利をいかしながら駄賃稼ぎをおこなっていたのである。


【34】坪井玄道

 嘉永5年(1852)、下総国葛飾郡鬼越村(現市川市鬼越1丁目)で坪井玄道は農家の次男として生まれた。
 「学校体育の父」として近代体育の発展と育成に努めた玄道であったが、市川で暮らした幼年期から青年期にかけては不詳な点が多い。
 慶応2年(1866)、14歳の玄道は、開成所で英学を学んだ。幕末の混乱期に江戸を川向こうに見る地に生まれた玄道が、新しい時代の胎動を感じ取っていたとしても不思議はなく、それが彼を開成所に向かわせた原因ではないかと考えられる。このことが、後に玄道を体操界へと結びつけるきっかけともなるのである。
 明治11年、文部省は学校教育の近代化方針に沿って、「わが国に適した体操法の選定と、体育教員の養成をはかる」ことを目的とした体操伝習所を開設した。ここで玄道はアメリカ人体操教師リーランドの通訳を勤め、彼の帰国後は、そのあとを継ぎ体操教師の養成にあたった。体操伝習所廃止の後も高等師範、女子高等師範学校の教授として、教員の養成のみならず、語学力を生かして海外のスポーツの紹介、普及に努めたのである。玄道は自分の生涯を次のように語っている。
  私が体育に身を投じた際は社会の人は私をオ一、二先生と呼び至って軽く取扱はれたが、私は真に体育が国家の大事であると云ふ事を自覚して名利を捨てて一生この職に甘んじた(後略)
 「これが先生の終生一貫した信念であった」と、玄道の教え子である藤村トヨは述懐している。


【33】民具再見 ワラスグリ

 縄、俵、むしろ、かます、ぞうり、わらじ、蓑、おひつ入れ……これらのわら製品は、現在の生活の中で珍しいほどの存在になってしまっている。機械化文明の発達で便宜な生活物資が普及することによって、かつてのわら製品は必要のないものとなってしまった。また、稲わら自体、品種改良や収穫方法の変化により、わら細工に適さぬものとなっている。
 今、日本人の培ってきた「わらの文化」は、足速にその姿を消しつつあると言えよう。しかしながら、「わらの文化」には注目すべき点が多々ある。
 まず第一に、わらの利用範囲の広さである。日常生活の中での衣食住、生産生業に用いられるばかりでなく、人の一生の中で経験する儀礼においてもわらが登場する。また年中行事の中にも、正月の注連縄を始めとして、様々に細工されたものが見い出せる。つじ切りの際のヘビもこの例である。
 次に注目すべき点として、わら細工の技術がある。「なう」「編む」「組む」「束ねる」などの技術が、いろいろに組み合わされてわら細工ができあがるのである。
 そして、すべてのわら仕事に先だって行われる「わらごしらえ」になくてはならないのがワラスグリである。スグルとは、わらのハカマや下葉などを取り除く作業。
 ワラスグリには竹製のものもあるが、市川では、センバコキの歯を荒くしたような形体のものが用いられていた。スグル要領もセンバコキと同様である。わらという副産物を巧みに利用した生活が変わっていく中で、ワラスグリも、今や過去のものとなりつつある。


【32】幻のオリンピック村

 昭和11年3月、IOC会長バイエ・ラツール伯が来日した。次のオリンピック大会を東京で開催するにあたり、大会会場の視察が目的であった。
 当日の日本のスポーツ界は、国内での普及と組織化を進められた大正期に引き続き、国際的活躍の時代を迎えていた。昭和7年の第10回、11年の11回のオリンピックにみられたように、高い水準を示していた。
 このような背景のもとでオリンピック大会招致が決定され、昭和11年にベルリンにおいて東京開催が正式に決まった。これに対応して同年暮れには東京オリンピック組織委員会も結成されている。
 開催地が東京とはいっても、種目によっては近郊に競技場や選手宿舎を確保しなければならない場合もあり、招致運動も行われた。
 市川市は市制施行後1年余を経た11年3月に、初代浮谷竹次郎市長が再選されているが、就任直後の新聞は、同市長のオリンピック宿舎招致運動を報じている。
 その内容は、里見公園にオリンピック村を建設することであり、さらに国府台は馬術競技場の習志野原に近いため、馬術選手の宿舎には絶好というものであった。このため目下来朝中のラツール伯にも実地検分を願い、是非とも実現したいとの願いをその筋へ申し込んでいるとのこと、とある。
 ところが、着々と準備が進められつつあった東京大会は、戦争の暗雲がたれこめる中、鉄は戦争のためにとの声に包まれて、夢は幻となった。昭和13年、開催地はヘルシンキとなったが、やはり戦争で中止となった。


【31】近世の若宮村

 亨和3年(1803)の若宮村の村高は189石余である(「若宮村・中山村明細帳」、『市史』六巻上)。反当収穫高を表示している石盛(こくもり)とは、検地によって決定された1反当りの公定収穫高を意味している。
 石盛決定は、田畑を上〜下、または下々に区分し、上田(じょうでん)3〜4カ所の1坪の平均収穫量を見当し、1坪の収穫が1升ならば1反(300坪)=3石となる。これを5合摺り(ずり)にした1石5斗を上田の石盛とし、以下、中田(ちゅうでん)、下田(げでん)と2ツ(2斗)ずつ下がり、つまり中田1石3斗、下田1石1斗となる。畑については、上畑(じょうばた)は中田に準じ、以下2ツずつ下がり、屋敷は上畑なみとする。これが一般的な石盛の標準数値である(神崎彰利『検地』)。
 若宮村の田は32石で(上田は記載なし)その石盛は中田9ツ(9斗)下田7ツ(7斗)下々田5ツ(5斗)、また畑は157石で、上畑9ツ、中畑7ツ、下畑5ツ、下々畑3ツと計算されている。これを石盛標準数値と比較すると、田畑ともに4斗減であり、若宮村の田畑の生産力は標準より低位ということになる。
 しかし、小台地の上ののっかった若宮村の耕地景観は「村内一身高場二面、畑は一円打開キ田ハ谷津合御座候」とあり、田方農村より領主支配の弱い畑勝農村であった、とかかれている。若宮村のような「大都市近郊型」農村にとっては、田より畑の耕作のほうが“うまみ”があったのであろう。一概に標準石盛との単純比較のみによって、村の生産力を決定できないのである。


【30】今昔・鬼ごっこ

 「今、学校で流行っている遊びは“色オニと形オニ”です。」
 これは歴史博物館の体験学習参加者に、「好きな遊びや学校で流行っている遊びを教えて下さい。」と問いかけたところ、市内に住む小学校6年生の女子が答えてくれたものである。
 このうち、色オニは仲間10人ぐらいで行うもので、まず最初に鬼決めのじゃん拳をする。じゃん拳に負けて鬼になったものは、自分の好きな色やみんなが見つけ難いような色を、たとえば「黄色!」というように指示する。すると他のものはクモの子を散らしたように四方八方に散っていき、鬼が指示した色を捜し出してそのものに触れる。この色に触っている以上、鬼につかまることはない。鬼は仲間が指示した色を見つける前につかまえるわけである。そして不覚にもつかまってしまったものが次の鬼となる。
 こうした「鬼ごっこ」の類は、神社仏閣の「鬼やらい(鬼追い)」の行事に源を発するといわれている。災厄をもたらす精霊としての鬼を追払う行事に少年を参加させたことに起り、それを子どもが模倣し、今日に至っているわけである。(柳田国男『こども風土記』)
 多くの子どもの中から鬼を一人決め、他のものは鬼につかまらないようにして逃げ、つかまってしまったものが次の鬼になる。こうした鬼ごっこの形は古くから変わらない。
 鬼ごっこがいつ頃から子どもの遊びになったか定かではないが、すでに安永4年刊の「物類称呼」に全国各地の呼び名が記されている。


【29】民具再見 蓑

 田んぼの仕事は、田植えの疲れを癒す暇もなく田の草取りへと進む。換金作物としての大根やネギの栽培を行う市川の農家の人々にとっては大変な忙しさである。梅雨時、雨だからと仕事を休むわけにはいくはずがない。
 雨の日には、田へ行くにも畑へ行くにも、菅笠と蓑は欠くことのできぬ雨具であった。
 蓑は、ビニール製雨具の普及により、今では全く姿を消してしまったが、古老の話によれば、着心地の良さではビニールなど比べるべくもなかったという。ビニール製のものは、着て仕事をしているうちにむれてくるが、蓑は雨を防ぎつつ、風通しも良かったそうだ。
 蓑の材料は、ササメとクゴであった。共に山や畑に自生する植物である。
 クゴを打ってやわらかくした後、縄にない、くさり状に編む。これを簡単なチョッキのように、手を通せるよう仕立てる。外側に密集して雨水の浸透を防ぐのがササメである。ササメも、骨を抜き湯をかけてやわらかくして用いたという。蓑作りは、かなり手間のかかるもので、年寄が留守番しいしい作ったと、明治生まれの古老(松戸より市川へ嫁いだ人)はいう。
 ただし市川ではあまり手作りする人はなく、秋、八幡の農具市で求めることが多かったようだ。
 新しい蓑は畑仕事に、古いものは田んぼの仕事にと、そんな使いわけもされた。新しいものは長いので、田んぼに入ると稲とからみあったり、泥にぬれたりするからである。古くなり短くなったものも、それなりの、いやそれゆえの使い方が見い出され、蓑は生産生活に深く結びついた雨具であった。


【28】青い眼の人形

 大正時代の後半になると、生活の洋風化と工業の発展があいまって、キューピーや洋装の人形などの新しい人形が多く生まれた。
  青い目をしたお人形は
  アメリカ生まれのセルロイド
で始まる野口雨情の「青い眼の人形」が発表されたのも、ちょうどこのころのことであった。
 それから数年後、アメリカからの親善使節として、青い目の人形が多数日本にやってきた。その数は12,000体ともいわれ、全国に配分された。千葉県内にも200体以上が配られたという。
 雨情の歌は、直接このことに結びつくものではないが、歓迎の心を込めて各地で歌われつづけた。
 日米両国の友好のために贈られたこの人形たちは、各地で校長室などに置かれ、大切に扱われた。
 ところが、太平洋戦争の開戦とともに様相は一変してしまった。昭和18年の新聞では「仮面の親善使」と表現され、鬼畜米英のひとがたとして、憎悪の対象となっていった。国民学校と改称された小学校の校庭では、竹ヤリで突かれ、あるいは火あぶりにあって、戦意昂揚のための見せしめとされた。
 このような運命をたどった人形たちは、すべてなくなったわけではなかった。心ある人々によって秘かに隠された難を免れたものが、全国で170余体といわれ、千葉県内でも発見されている。
 市川市域内では、人形が配分されたころには行徳小など8校があったが、発見例は一つもない。もし配分されていたとしたならば、他の地域の例と事情は大差なかったと考えてよいのであろうか。いずれにせよ、無言の人形たちには多くの事実が秘められている。


【27】近世の宮久保村

 宮久保村の村高(むらだか・村が持っている公式の生産力)は395石余である(亨和3年・1803年「村方様明細帳」・市史六巻上)。家数は57軒、人数233人で、そのうち男が124人、女が109人であり、その他に馬が11疋飼育されている。こうした農民達の働く姿を復元してみよう。
 まず耕地は「畑は少々田勝二面」と畑より田のほうが多かったようである。肥料は「下尿・馬屋こゑ・小ぬか等重ニ相用ひ、其外ゑんとう油かす等少々相用ひ申候」を使用し、このうち下肥は主に江戸の武士や町人の糞尿である。幕末にはこの下肥値段の大幅な値上げがあり、これに対して数100カ村の村が、共に共同戦線をはって値下げ運動をおこなっている。米のほかには瓜・西瓜・大根をつくり、農作業の合間をみては、薮木をとったり、縄ないをしたり、糸をつむぎ木綿を織って、生計を補っていた。つくられた米は一部を年貢として、市川河岸より浅草蔵前の幕府の米蔵まで搬送され、野菜類は江戸で換金されたのである。
 宮久保村の農民の日常は額に汗して働く労働が生活の基本ではあったろうが、たまの遊日には、村にある「木綿切居酒・小間物居酒」で1杯やったり、「たはこや」や水菓子(くだもの)類商売家から買物をしたりして骨休めもしたであろう。
 以上の農民達の生きてきたのは今から181年前である。今、彼らが眠る墓地を訪れると、幾ばくかの「人生」への「こだわり」を持ちつづけられるかも知れない。


【26】おもちゃ

 「おもちゃ」ということばは、「持遊」を約した「もちゃそび」の下を略して「もちゃ」となったものに、所謂尊称の「お」を付けて「おもちゃ」になったものである。安政5年発行の「春遊諸商買繁昌双六」には、「持遊屋」と書いて「おもちゃや」と添え書きされている。
 おもちゃが量産売買されるようになったのは江戸時代になってからである。経済の発展や手工業の発達が多くのおもちゃを生んだ。安永2年発行の玩具絵本「江都二色」には、張子の犬や虎、でんでん太鼓、手車(ヨーヨー)、風車、縦笛など当時人気を集めていたおもちゃが描かれている。街道が整備され、物見遊山が容易となった江戸中期、神社仏閣の参詣者相手に縁起物としてみやげもの玩具は普及していった。残念ながら当時のものは現存していないが、郷土玩具の中にその流れを見ることができる。
 明治時代以降、欧米文化の導入によって、おもちゃは素材も形も大きく変わっていったが、一方で昔ながらのおもちゃは、「郷土玩具」と呼ばれるようになった。
 『房総の郷土玩具』によると、市川では昭和14年頃、真間の手児奈の子育信仰にあやかって、「子育人形」が売られていたという。手児奈霊堂前のかつしか屋で扱っていたもので、胴面に紅葉模様を描いた10センチくらいのこけしだったが、売れゆきがおもわしくなく、廃絶してしまったという。
 現代は、たった1曲の歌のヒットによって、饅頭だ、通行手形だとあっという間にさまざまなみやげものが作られる世の中である。


【25】民具再見 ワタクリキ

 「あの人はよいモメンを着てどこへ出かけるのだろう」という時、モメンという言葉が意味するものは何か。
 岩手県や秋田県では、よい着物のことをモメンという言葉で表現していた時代が遠からずあった。晴衣や外出着の美しい着物が「よいモメン」と言い表されていたのである。縮緬を着た人でも、羽二重でも、よいモメンだとほめられた。木綿を晴衣として迎えた時の心持ちが、この言葉を残したのだろう。
 もともと暖地に生ずる木綿が日本に伝来したのは、16世紀のことである。西日本を中心に栽培がすすみ、各地に特産地ができ、商品化の道を進んだ。千葉県の上総木綿もその一つである。
 夏の盛りに黄色い花を咲かせ、秋の初め綿の実は爆ぜる。摘み取られた綿は、さまざまな行程を経て綿糸となる。その最初の作業に使われるのがワタクリキである。
 綿の繊維は、種子を包み込んでまつわり付いているので、ワタクリキを用いて種子を取り除く作業が行われる。両端に螺旋溝を刻み込んだ2本のローラーが取り付けられている。両端の螺旋溝が歯車のように噛み合ってローラーを回す仕組である。
 2本のローラーの間に綿を入れて回すと、種子だけ手前に落ちるようになっている。綿から糸を手紡ぎし布を織ったころには、便利な道具であったはずだ。市川近辺では、綿の栽培や機織りについての話はあまり聞かない。しかし、今も農家の片隅でワタクリキが見い出されるのは、かつてここでも使われた時があったことを示す。


【24】タナヤとナーマ

 春の新芽が芽吹く頃になると、種籾を小さい俵につめ、タナヤと呼ぶ池などにつける作業が始まる。種籾は、前の年の秋に収穫した稲穂の中から、ケエリンボ(雑種)がまじっていないものを胴割れしないように脱穀しておいたものである。
 タナヤは、村に一つとか二つ、あるいは1軒の家で持っている。これを共同で使ったり、親戚で使ったりする。どこの家のものかわかるように俵には札をつけておいたりするという。シイナ(不入りの籾)がくさるぐらいタナヤにつけておき、あげたらよく水をきって日向でトコにつける。3日ぐらいトコにつけて発芽すると、タゴ(桶)に入れてナーマに運ぶ。この時種籾の上に新芽のでたエボタの木をのせていく。
 種籾を蒔く日が早くても遅くても良い苗ができなくなるので、これをいつにするのかを決めるのは経験による判断になる。蒔き終わると、ナーマのミノテグチ(水の入口)にエボタの枝を3本さしフキの葉にのせたいり米を供えてミノテグチ祭りをする。
 どの家でもナーマをつくる田は毎年決まっており、水がかりの良い田が選ばれている。このナーマを作る田のことをオヤダと呼び、この田への田植えがいつも1番最後になる。ナーマにまいた種籾の芽が完全にでてくると、水を少し抜いて水温が上がるようにし、苗の成長を早める手助けをする。ナーマへの肥料はいわし等のシメカスや豆カスを使った。
 民俗学ではタナヤ、ナーマ、ケエリンボ、シイナ、ミノテグチなど呼び名には、漢字をあてずに、音だけを示すようにカタカナで表記する。


【23】心のふるさと

 国府台のある一角に、一つの小さな石柱がある。刻まれた文字から部隊名が読みとれ、かつてこの一帯に軍隊が置かれていた事実を改めて思い起こさせてくれる。
 この丘の上の連隊からは、多くの将兵が戦地へ征った。あるときは群集の歓呼に送られ、またあるときは静かに隠密裡にと。そして再び同じ場所にもどらなかった場合も多くあった。
 戦後40年近く経過した今も、戦友会が盛んである。そこでは、戦死者と出会い、その冥福を祈り、―生死をともにした仲間たちと飲食をともにしながら昔話に花が咲く。見知らぬどうしが、国府台の営門を自分の意志とは関わりなくくぐったという縁で結ばれて戦友となり、苦労をともにしたことが戦友会の原点であるという。
 市川の地を訪れては、1本の松の木にも遠い日の記憶を呼び戻そうとする。そこには、まさに生そのものが確実に存在したのだった。市川と戦友会を結ぶ軸とは、この点にあるといってよい。
 戦友会とは新規加入者のない特殊な団体である。会員は確実に老けていく。将来はどのような形で受け継がれていくのであろうか。
 ともあれ、そのような人々にとって市川は追憶の場であり想い出の地であることはまちがいない。市川や国府台という地名を見聞きするだけで胸が熱くなるといい、「市川は心のふるさとです。」と表現する。そこには、帰らざる日々に対するノスタルジアという言葉だけでは済まされない何か大切なものが隠されているように思われてならない。


【22】近世の上妙典村

 当村も本行徳村と同じく塩田の村である。明和4年(1767)「村鑑(むらかがみ)書上写損拍帳」(『市史』第6巻上)をみると、村高が約105石(約500石が中規模の村といわれる)、村人の総勢が390人、うち男子が7割を占め、女の少ない村である。家屋は88軒あり、うち大小百姓65軒、借地水呑(一般農民よりくらしむきの劣悪な人々)23軒である。このように男の多いのも、当村が塩田の村であることを物語っている。
 一方、農業については、用水を真間堰八幡町内内匠堀より引水している。しかし川下の村であるから日照りには水に困り、逆に長雨のときは、排水の悪さから江戸川のあり余る水に難儀している。田畑に使う肥料と刈り敷きや家畜の飼料に使う秣(まぐさ)は、草刈場がなかったことから畦や畑の周辺の雑草を用いている。こうした苦労をして収穫された米の大部分は、年貢米として本行徳の河岸場から江戸に向けて積み出されていた。
 以上ここまで上妙典村の人々の生活をみると、いつも難儀を強いられたくらしをしていたと思いがちである。どっこい、そうではなかった。上妙典の人々は、当時、世界でも有数な大消費地である江戸を近くに持った“地の利”を生かし、行徳の海でとった小魚、江戸川の自然堤防上を利用した畑地からの野菜、塩田で余る塩、などを販売、小商しておおいに生活の糧としていたのである。
 現代の物質社会にどっぷりつかった人々には、当時のこうしたエネルギッシュな人々の生活は理解できないかもしれない。


【21】ベエごま

 親や教師のひんしゅくを買いながら、なおも男子の遊びとして根強い人気を保ってきたものに「ベエごま」がある。昭和30年代、当時小学生であった市川生まれの青年は次のように回想している。
 授業が退けると、いつもの仲間5、6人が約束の場所へと集まってくる。そこでは、初めにバケツを台にし、ゴムシートを被せて中央を窪ませ、床(ベエごまを回す台)を作る。勝負は、1対1あるいは複数での場合もある。とにかく他の独楽(こま)を床から弾き出したものが勝ちである。
 このころ一般に出回っていたベエごまは鉄製であった。そのため、大人の目を盗んでは、コンクリートの壁やたたきを使ってリキをつける(力をつける)ために削って角をつけ、六角や八角の独楽を作った。また土に埋めてサビをつけ、わざと重くすることもあった。種類も、タカベエ(重心が高い)、ベチャ(重心が低い)、ケットン(先が尖っている)、ベタベエ(先が平ら)など多くがあった。勝負にもツッケン、ガッチャキ、ヒッチャキなど独自の方法があった。“タカベエで角のない独楽は勝てない。ベチャで角の多い独楽ほどリキがある”。何10回となく行った勝負の中で、経験によって得た知識と観察の結果がそこにあった。勝負に強い独楽は「シンショウガン」として宝物のように大事にされた。
 しかし、大人によく思われていなかったベエごま遊びは、かくれてするしかない。「ザリガニ釣りに行ってくる」。そう言って棒切れと糸を抱え、カムフラージュすることも忘れなかった。


【20】民具再見 ムシロバタ

 脱穀したあとの稲ワラでムシロを織る用具がムシロバタである。
 本体はいたって簡単なつくりで、隔てた小さな台の上に2本の木を立て、上と下にそれぞれ横棒を渡す、組立て式である。この上下の横棒に、地面に垂直になるように細縄を回し掛けたものが、織物でいう縦糸になる。これにワラを織り込むことで、ムシロが形作られる仕組である。
 ワラを織り込む際には、附属品であるサンゴとヒが大役を果す。サンゴは40余りの穴が均等に開けられた細長いもので、縦縄を張る時には1本毎にその穴へ通すのである。サンゴを操作することによって、縦縄が1本おきに開閉し、ワラを通すすき間ができる。単純な四角い木枠を織機たらしめているのはこのサンゴと言えよう。
 ヒは竹製で、カギ針の形である。これにワラを引っ掛けて横に通す作業をする。サンゴを操る者とヒを使ってワラを入れるものと2人でムシロは織り上げられる。
 農家の人々の仕事始めは、ワラ仕事。七草が済むと春の農作業が始まるまでの間、ワラを相手に過ごす日々である。秋の収穫後、乾燥させ、すぐっておいたワラを用いて、その年使う俵やムシロを作りためておくのである。
 稲作の副産物であるワラは、そのまま飼料や肥料に使うばかりでなく、なう、織る、編むなど手を加えて様々に利用され、生活の中で欠くことのできぬ存在であった。しかし、近年ワラの利用は著しく減少している。利用の減少と共に、ワラ細工の方法や技術が忘れ去られてしまうことは、何とも寂しい思いである。


【19】農具の年取り

 今ではこのような行事がみられる家も少なくなってしまったが、かつては市内のほとんどの農家では師走の30日頃になると臼伏をしていた。これは臼供養ともいい、屋敷内にある農作業に使う道具を入れておくシノバとよぶ建物の中でする。今は臼を1つしか使わないが、かつては餅つき臼と米つき臼を二段重ねにして伏せておいたという。その上に石臼をのせて注連縄をはり、松を飾って餅を供えるのである。
 こうして飾った臼は11日の早朝までそのままにしておく。11日の朝早く、新年になって初めてシノバの戸を開け臼おこしをする。まず、注連縄、松飾り、お供え餅をささげて石臼をおろす。その後で伏せておいた臼をおこし、さげたお供えをいれ、杵で細かくつきくだく。この細かくした餅は田うない始めの時に田に持って行き、たてた松の上から米といっしょにふりかける。
 この行事は市川市内だけでなく、「農具の年取り」などといわれて全国的にみられるものである。年末に鎌、鍬、臼、杵などの代表的な農具を洗って飾り、餅を供えて年を越す。これを寝せるといい、正月2日にクワハジメ、ウスオコシなどという行事をするものである。
 新年を迎えるにあたり、農具にも年を取らせて、新年のあらたな活力にあふれたアラタマをつけさせ、古くなり弱くなった力の更新をはかる。こうして新しい力を得た農具によってその年もまた豊かな稔りがもたらされることを期待した予祝儀礼であるといえよう。正月は、まさにおとろえたタマが新しい活力のあるアラタマにいれかわる節目なのである。


【18】いちごの配給

 戦時下の市民生活といえば、食糧や主要な物資の配給制が先ず第1に考えられる。当時の新聞紙上では配給に関する記事が連日のように載せられている。
 そのうち、2、3を拾ってみると、昭和15年の砂糖の切符制実施にあたっては、市内の加工業者が商売をやっていけないと陳情していることや、同じ年に行われた東北地方への木炭の買出し部隊が出発したことなどがある。さらに、家庭用物資のすべてが配給切符制となった昭和17年には、集成切符なるものが市川でも使われ始めている。
 市会での議事も、配給方法を公平にとか、悪質業者を一掃しろという内容となることが多かったのも当然で、深刻な問題であった。
 ところで、これとは別に一方では、食糧増産、供出奨励に関する特例措置が実施されるなど、生産者側に対する統制が一段と強化されていった。
 近郊型園芸農業を主体とした市川では、その影響が大きかった。作付統制令により、まず梨の伐採命令が出され、一方では供出も行われた。また、スイカやメロンなどの不急作物の作付けが禁止されるようになると、市川名物の苺も例外ではなかった。苺畑は全面転換されることになった。
 昭和19年の5月、出盛りとなった苺は「お名残り苺」として全部市民へ振舞われることになり、各戸に配給された。その量は、5人までは1箱(約300匁)、6人以上へは2箱というものであった。
 この半年後、米爆撃機による東京初爆撃が行われ、市川上空にもB29が飛び、初めて爆弾による被害が出ている。


【17】近世の本行徳村

 幕府の直轄領であった行徳地域は、製塩に従事する村々であった。行徳の名は、関八州は言うに及ばず、遠く奥州、信州の地まで知られていた。行徳の地の諸村のなかでも中心的な村として位置づけられていたのが本行徳村であった。
 当村が塩田の村であったことは、天明6年(1786)の「本行徳村明細帳」(『市史』第六巻上)をみればよくわかる。それには、「是者男女共当領之儀者塩浜第一二仕、尤森雨等之節者海辺江能出貝類草取渡世仕候」と記され、まずもって製塩が最優先の仕事であった。しかし幾日も降り続く長雨のときは貝や磯草を収穫して生活の糧としていた。
 塩田には塩垂(しおだれ)百姓と日雇いで世すぎをする人々が生活していた。塩垂百姓とは、塩田を所持し、日雇層を使用人として塩田経営をおこなった人々であり、わずかのと土地しか所持していない水呑百姓と呼ばれた人々であった。
 このような日雇労働に従事した人々はどこからやってきたのか。本行徳村の場合は、当村内の人々が主であった。それは前述した天明6年の史料をみると明らかである。そこには百姓家数183軒とあり、この水呑が行徳塩業労働の主体であった。
 こうした水呑百姓達は、なんでもないひとりひとりの人間として、生まれてから死ぬまで、行徳塩業となんらかの関わりを持ちながら、かつ動物的な生ではなく“豊かな矛盾”を内包した人間的な生を描きながら、この地の製塩をささえてきたのである。


【16】泥めんこ

 現代の生活の中には、さまざまな遊びや玩具が氾濫している。マイコン相手に一喜一憂する子供の姿を見かけるのも、すでにめずらしくなくなってしまった。
 こうした中で、時代を逆行するようなものに出合うことがある。「泥めんこ」がそれである。関東各地をはじめとして全国的に採集することができるが、市内では、北国分の貝塚台球場や中国分の国分尼寺跡周辺、柏井、宮久保など広い範囲の畑で見つけることができる。直径2〜3センチ、厚さ1センチ弱の円盤形をしたものに、動植物や文字、おかめ、鬼などの面形をしたものなど種類は多い。どれも粒子の細かい質の良い粘土で作られた素焼のものである。
 泥めんこは、江戸時代中期に作られて子供の玩具であるといわれているが、詳しいことはわかっていない。この時代、庶民の間では「穴一」という銭を投げて勝敗を争う賭博が広く行われていたが、どうもその銭に代わるものとして泥めんこが作られ、それが子供の世界に登場してきたらしい。
 しかし、こうした子供の玩具がなぜ今頃畑から出てくるのか。祭祀説、塵芥・下肥混入説など諸説があり、今もなお疑問な点が多い。
 泥めんこは、江戸の風俗を今に伝えている。現在の紙製のメンコやビー玉は、明らかに泥めんこの流れを汲むものである。
 「泥めんこを見つけるなら雨上がりがいいよ。土器片見つけるのといっしょだよ。それに、土に石ころが混じっているような畑がいい」。豆考古学者たちはこう教えてくれた。


【15】民具再見 ノロシ

 「わしらの方とは、ずいぶん違うなあ」「そうだなあ」
 こんな会話を耳にして目を車窓に向けると、稲刈りを終えた田に稲積みが立ち並ぶ風景が広がっていた。10月も半ば、庄内平野を走る羽越本線車中のことである。
 この時期には、各地の田で稲を干す光景が、様々に展開される。庄内地方で見られたのは、1本の棒を中心に稲束を積む形式で、ホニョと呼ばれる。また、広大な屏風のように稲架(ハザ)いっぱいに稲束を掛ける地方もある。
 市川でこれに相当するのがノロシである。3本の竹を使って足を組み、その交差したところに長い竹を渡したもので、高さ1メートル程である。1つの田のまわりの畦1周にノロシをめぐらすと、その田で刈り取られた稲を全て掛けられるという。あらかじめノロシを用意しておき、刈り取る毎に束ねて畦へほうり投げる。ドブッ田の多いこの地では、刈り取った稲をそのまま田圃に置いたら濡れてしまうからである。
 ノロシに掛けられた稲は、良い天気が続けば3、4日で乾いてしまう。稲が乾き、脱穀へと作業が進むとノロシの役割は終わり、1本ずつの竹にばらされ、来年のために積み置かれる。もとは1本ずつの竹が、収穫の時期になると、ノロシに組み立てられる。
 ノロシという言葉は、九州・中国地方などで衣掛竿をナラシといっているのと一つの語であったことは疑いないと云われ、ナラスは均すで、平らなものということである。年に一度姿を見せる道具とも云えるノロシは、今年も市内のあちこちで稲を支えていた。


【14】秋祭り

 9月から10月にかけて市内の各地では秋祭りを行う所が多い。
 湊地域の香取神社の10月の祭りは、湊・湊新田・香取・欠真間の4部落の祭りで、10、11、12日の3日間にわたって行われる。この祭りには、餅、ハス、大根などで作った鶴・亀が神前に供えられ、神輿が各町内を練り歩く。しかし、稲が不作の年にはカゲマツリにするといわれている。
 また、本行徳1、2、3、4丁目と塩焼町の5カ村では10月15、16日の両日祭りが行われ、神輿がでて、各町内ごとに引き渡されて一巡し神社に戻ってくる。原木でも10月8、9、10日の3日間鎮守日枝神社の祭りが行われる。8日はヨミヤで祭りの準備をし、9日はホンマチ、10日にアガリマチで直会をし祭礼の台帳をひきつぐ。ホンマチには豊作の年は東京から芝居をよんでくる、といわれている。
 このような秋祭りの行われる時期は、月おくれのお盆も終わり、暑かった夏も終わりをつげ、黄金色に色づいて頭をたれた稲の収穫期である。この頃はまた台風が日本列島を襲ってくる時期でもある。稔りの秋は作物が雨風の被害を一番うけやすい時期である。この時期の風の被害をまぬがれるために、旧8月1日の八朔の頃に風祭りをして風をやわらげようと祈るところもある。風の被害もうけずに無事稲が収穫期を迎えるのは何にも代えがたい喜びだったであろう。だからこそ豊かな稔りをもたらしてくれた神に感謝して収穫祭を行うのである。このような時期に行われる様々な秋祭りは、まさに作物の豊穣を感謝する祭りなのである。


【13】村名いろいろ

 とにかく物に名をつけることはむずかしく、それが複合したものの場合は、なおさらのことである。
 明治21年、市制・町村制が公布された。この新制度の実施に先立ち、政府は旧来の町村を再編成するため、全国的規模で町村合併を断行した。千葉県東葛飾郡では354町村が合併して37町村となり、市川市域内では3町4村が誕生している。
 合併にあたり新しい名称が当然のことながら問題となった。命名法に苦心の跡が感じられるが、各町村ではどのような理由で新名がつけられたのだろうか。
 市川町、八幡町と中山村では、合併した旧町村の中で規模の大きな町村名をそのまま使った。行徳領の村々として有名な南部の地域では、本行徳駅が最大であったために行徳町として、その南を南行徳村とした。北部では、大野、柏井両村が比較的大村であったので両者を折衷して大柏村としている。
 既存の名称を使用する傾向が強かった中で、まったく新しいものを採用した例もあった。国分、曽谷、須和田、稲越、下貝塚の5村が合併してできた五常村がこの例で、村名は、儒教の五常道徳と旧村数の5に掛けて命名されている。
 明治22年に新町村として出発するが、五常村は翌年になってなぜか国分村と改称している。旧来の名称を使用していなかったために、何らかの不都合が生じたのであろうか。理由は定かではないが、五常村という名称がこの時点で歴史上から消え去ってしまったことは事実で、現在では地名として残ることもなく、その名を知る人もわずかとなってしまった。


【12】近世の大野村

 大野村は近世において、村高1156石余を誇る、市域最大の村である。この大野村農民の生活ぶりはどうだったのであろうか。
 当村には宝暦6年「大野村家並御身分帳」(板橋家文書、今から227年前)が残存している。この史料は、当時の農民の家族構成を知らせてくれ、また「奉公出」の記載により、村方奉行人の動きを垣間みせてくれている。村方奉公人とは亨保頃(今から267年前)から盛んにあらわれはじめる村からの奉公人を意味している。この宝暦6年の史料によれば大野村の総人数は854人、うち男349人、女359人である。奉公人数は、男87人、女50人で総人数137人である。老人・子供を除いて、当村における奉公人の割合は26%を占めている。
 こうした奉公人化は、なにも大野村にのみ顕著な現象としてあらわれていたのではなく、この時期の関東農村では、どの村においても一般的にあらわれていた現象であった。つまり、こうした農民の奉公人化の歴史的背景には、関東農村の全般的な荒廃化現象(南関東を除く)と、それと同時併行的に進行した農民的商品流通の隆盛があり、大野村や他の関東農村の農民たちは、町場へと、河岸場へと、よりよき働き口を求めて出立したのである。
 こうした状況のなかで、あるものは富有化し、またあるものは貧窮化していった。これを農民層分解という。いわば、当時の関東農村の激動を大野村の「大野村家並御身分帳」は如実に表現している。


【11】盆踊りのこと

 太陽が沈み、虫の音が聞こえてくる夕暮れともなると、にぎやかなお囃子の音もまた涼風に乗って聞こえてくる。
 盆踊りの季節がやってきた。気忙しい毎日の生活の中で、忘れかけていた故人の想い出がわき上がってくるのもこの時期である。最近では、新暦、旧暦、月遅れなど、盆の時期は土地によってさまざまである。市川市内でも、7月に行うところも、8月に行うところもあり、その家によって違う。
 そもそも盆は、正月と同様に、あの世から祖先の霊を迎えてまつる「魂祭」の行事である。ふだんは通うことの許されないあの世とこの世に、一つの道が開かれる。
 この時期になると、人々は盆棚にごちそうを供え、歌い踊って、迎えた霊を歓待する。祖霊をはじめとして、無縁仏や精霊も含めてまつることによって、これらが悪霊となって悪さをすることのないようにするためである。
 しかし、どんなになつかしい故人の霊であっても、いずれは帰ってもらわなければならない。こうした霊を、楽しくにぎやかな踊りのうずの中に巻き込んで送り返してしまおうとする魂胆が盆踊りにはある。
 はなやかに彩られた櫓を中心にして人々が踊る。東京音頭やおばQ音頭が繰り返し流れる。これは市内で見られる盆踊りの光景である。人々の心には、祖先の霊とともに踊るなどという意識はおそらくない。本来の意味は失われつつある。しかし、故人を思う気持ちまでもが失われたわけではない。盆行事は、生活の中に季節の折り目として確実に生きている。


【10】民具再見「人力除草機」

 6月から7月にかけては農家の人々にとって忙しい時期である。
 田植えを終えて、ほっとする間もなく田の草取りの季節がめぐってくる。田植え後2週間程たつと、最初の草取りをする。これを「一番草」という。「一番草」のあと、また二週間位で「二番草」である。
 水田の草取りは、腰をかがめ続けて行うつらい仕事である。田んぼに這いつくばるようにして取り、取った草を手で丸め、田の土の中へ踏み込む作業の連続である。現在は除草剤を使うようになったが、かつての草取りは農作業の中で、最もつらい仕事であった。
 このつらさを改善するために、明治初年頃より考案された道具が人力除草機である。1メートル程の柄の先端に、鉄の歯を植えた円筒状の車を取り付けたものだ。先端の構造にやや違いのみられるものもあるが、いずれも稲の条間を押して作業を進める道具である。これは明治の代表的な農具発明のひとつといわれる。
 しかし市川の古老の話によると、この除草機は日照りで田の土が固くなってしまった時に使う程度であったという。除草機を転がすには、田があまりに深くてやわらかすぎた故であろう。
 一般的にも、人力除草機は動力化への進展をみることなく、戦後除草剤の普及に伴い姿を消した。つらい作業を克服するために考え出された道具ではあったが、一世を風靡した時代は、すでに遠い。


【9】墓と堂

 北国分4丁目に禅照庵と呼ばれている所がある。現在は墓と公民館があるが、昭和30年代の初めに公民館が建てられる前にはお堂のようなものがあり、それが今でも禅照庵と地元で呼ばれている。
 ここには主僧はおらず、リョウ坊主と呼ばれる留守居のような物が住んでいたという。リョウ坊主は正式は僧侶の資格はなく、「しょうがないからリョウ坊主になるか」と言ったりするほど世間でくいつめた人がなというイメージが強かったという。したがってリョウ坊主のすることというのは特になく、葬式のある時に禅照庵の座敷きを掃除したり、墓や庵、お宮の掃除をすることぐらいであったという。彼らは、1日に何回かムラの中をまわって簡単な経をあげて米をもらったり、お宮の掃除をすることによって得るお宮の賽銭等で暮らしていた。
 また、彼らが住みついていた禅照庵のような墓にかこまれた堂の存在についてて古くから注目され様々な見解が示されてきた。それは大まかには堂がムラの祖霊祭祀の場であったのではないかという考え方である。このような考えはおおむね肯定され、さらに、堂を祖霊祭祀堂型と死霊祭祀堂型の2つにわける考え方がだされている。
 これら堂は、中世から近世・現代にいたる歴史の流れの中で、治病招福の祈祷堂的性格や、菩提供養や極楽往生を願うための場となっていったり、あるいは寺化してきたのである。墓との関連などは、今後さらに十分な検討が必要だといえる。


【8】色さまざま

 私たちの日常生活ではカラフルな環境にありながら色を意識的に感じていないことが多い。とはいっても、形が知性にはたらきかけるのに対し、人間の感情に強い作用を及ぼす色の印象は強烈であり、心の中で何らかの影響を受けているものである。また、特定のイメージを抱かせるということや、反対に心の中の感情を色に託して表現することもある。
 近代の歴史の中で、カーキー色は国防色とも呼ばれ、軍人、軍隊、戦時体制を連想させる象徴的な色であるといっても過言ではない。
 軍服は、フランス式からドイツ式へとデザイン上の変化もあったが、最大の変革はこのカーキー色のイギリス型戦時服の登場であった。その後、若干の変化はあったが、基本的には終戦まで使われた。
 ところで、市川は明治18年陸軍教導団が東京から移転してきたことを契機に、以後60年にわたって軍隊の町となり、文字どおり軍隊の起床ラッパで明けて1日中軍人で賑わい、夜はまた連隊のラッパで暮れるというものであった。軍人の往来が頻繁だったということは軍服の色彩が氾濫していたことを示している。
 日露戦争後に陸軍の正式軍装となったカーキー色軍服は、見た目には決して美しいとはいえないこの色が土の色に似ているという純粋に戦術上の理由で採用されたものであった。
 このような改正は、軍人に大きな変化を要求したばかりでなく、当時の市民の目に大きな驚きを与えたにちがいない。


【7】近世の柏井村

 柏井村は市川の諸村のなかでは中位の規模(村高500石余)の村である。当村の様子を天保九年(1837)「村差出書上帳」を通して考察すると、村内には89軒の家々があり、男270人、女290人の合計560人の農民が生活していた。また馬26疋が飼われている。村域は、東西南北それぞれ約700間(約1260m)四方のほぼ真四角であった。
 柏井村は谷田(やとだ)をはさんで、西側を市域最大の村でかつ唯一の藩領であった大野村と、北東側を中沢村(現、鎌ヶ谷市)と接していた。この中沢村とは時折、用水をめぐる水論(すいろん)をおこしている。
 では1260m四方の村を中心に生活した、農民560人のくらしぶりはどうだったのだろうか。彼等の個々の生き方は、働き(労働)、くらし(生活)、たのしみ(娯楽・文化)、たたかい(闘争)を繰り返しながら、おそらくは、やさしさと矜持(きょうじ)、だらしなさとまじめさの共存するあるがままの存在において、その生き方を歴史の中に織り込んだのだろう。
 柏井村農民の生計のたてかたをみると、米づくりの合間をぬって、夏は瓜(うり)・西瓜(すいか)、冬は芋(いも)・大根(だいこん)をつくり、大消費地であった江戸まで売り歩いた。また、男は行徳で塩焼きに使われた芝萱(しばかや)を苅って売り、女は薪(たきぎ)を苅り、これも売り歩いた。これらのことを農間余業などと言ったりしているが、現実は余業などというのんきなものではない。柏井村の事情からも日本農業は兼業農家の歴史といってもよい。


【6】「結ぶということ」

 桜もあっという間に過ぎた中山法華経寺の境内。花の終わったこの季節のはだか木をにぎわせているのは、結ばれたおみくじの白い花。法華経寺に限らずm最近どこの神社仏閣でも見かける光景である。
 一説には、「凶」が出た場合に、無事に過ごせるようにと念じて結ぶものといわれているが、実際には「吉」が出ようが、「凶」が出ようが、かまわず結んでいるのが現状のようである。しかし、こうした習慣はいつ頃からあるのだろうか。そこに、古代万葉人が持っていた“結びの信仰”との関係が考えさせられる。
 古代において、人々は自分の魂を分割することができると信じていた。そして物を結ぶということは、そこに分割した自分の魂の一部を結び留めることであった。
 『万葉集』巻二の挽歌に、次のような有間皇子の歌がある。
   岩代の浜松が枝を引き結び
    ま幸くあらばまたかへり見む
 口訳すると、岩代(和歌山県)の浜の松の枝を結んで、道の神(道祖神)に無事を祈って行くが、さいわい無事であったなら、再びここに立ち帰ろう、という内容である。魂は神への手向けであり、結ぶことは、一つの作法であったのである。また、この考えは、男女の愛情表現として、しきりに歌に詠まれた。互いの魂をこめて結び交わした紐は、再び逢う日まで解かない、あるいは結び交わした人にはいつかめぐり逢うことができると信じられていた。
 こうした「霊魂」と「結び」に対する考え方は、現代においても生活や精神のいたるところに、静かに浸透している。


【5】民具再見「田下駄」

 昭和32年6月のある日、市内堀ノ内の梅雨明けの田圃で立ち働く農民の足もとに、オオアシという田下駄を見い出し、感動した一人の青年がいた。現在、日本はきもの博物館ではきもの研究に勤しむ潮田鉄雄氏である。潮田氏をして田下駄研究に興味を抱かしめるきっかけの一つともなったのが堀ノ内のオオアシであった。
 田下駄とは、水田作業に用いられる下駄形のはき物のことで、深田で稲刈りをするときに、もぐらぬためにはく稲刈り田下駄と、田の代踏(しろふ)みなどに使う代踏み田下駄とがある。市川周辺では、稲刈りの際用いるものをカンジキ、田植え前の代踏みに使うものをオオアシと呼ぶ。
 材質はほとんどが杉であり、カンジキは縦38センチ、横24センチ程のものである。一方、オオアシは縦85センチ、横30センチもある大きなもので、中央の鼻緒のほかに四すみに縄が結び付けられていて、これを手に持って、一歩一歩持ち上げるようにして、田の土を平にするのである。
 名称や形態に種々の違いはあっても同様の機能を果たすものは、全国各地に見られる。水はけが悪く、腰や胸のあたりまで沈んでしまう、ドブッ田と呼ばれる深田が多かった市川の農家の人々にとっても、なくてはならない道具であった。ほぼ同様のものが弥生時代の遺跡からも出土していることから、田下駄は2000年来、さしたる変わりもなく深田での米づくりを支えてきた、きわめて息の長い道具であったといえる。そして今、耕地整理などにより田が浅くなって、その長い歴史を閉じつつある。


【4】生活の歴史

 歴史ということばを聞くと、われわれは、ともすれば政治や経済上の事件を中心に考えがちである。しかし、われわれが日常行っているさまざまな行為―例えば食物を食べること、衣服を着ること、一年の間にさまざまな行事・祭りを行うことなど―で歴史をもたないものはない。
 近年、村に残された近世の日記類の刊行が盛んになり、そこに記されていることがらや村明細帳の記述等から当時の村の様子がある程度わかるようになってきた。しかしながら、文字によって記されたのは生活のごく一部であり、その全体像を浮かびあがらせるのは容易ではない。
 そこで、こうした記録から取りこぼされてしまった多くの人々の日常の生活の歴史―それはとりもなおさず、われわれ普通の人々の歴史でもある―をとらえる方法として、世代から世代へと伝えられてきた伝承や生活の中で使われてきた種々の用具、あるいは路傍の碑塔類を利用することが可能であろう。これら資料を利用してさぐるのは日本人の生活の歴史である。そして、それはいうまでもなく懐古趣味などではなく、未来を見通したものでなければならない。具体的には、ハレの日とふだんの日の衣食の区別や家の間取りとその使い方、また人が生まれてから死ぬまでのいろいろな行事や儀式、さらに一年間の行事や祭りなどもある。例えば、市川市内には、旧村単位・区単位・組単位のオビシャが重層的に存在する例があり、そこから、生活の単位として村の範囲、あるいは人々の考え方や見方を知ることができる。


【3】裏文書あれこれ

 歴史研究上で基本となるのは、書かれた記録類などだ。これらの大部分は紙に書かれたものであるが、時代をさかのぼればのぼるほど紙は貴重品であった。1度使った紙を捨てずに裏返して日記やその他に利用してきている。
 この場合、もとの文書(もんじょ)は裏文書(うらもんじょ)とか紙背文書(しはいもんじょ)と呼ばれ、陶然のことながら、裏文書のほうが時間的順序でいえば古い。この例として名高いものとして、古代では正倉院文書があり、中世では中山法華経寺所蔵の聖教裏文書をあげることができる。
 時代はくだって江戸時代の市川小岩関所の記録が、ここを通過する人々が提出した往来手形の裏に書かれている例もある。
 一般に裏文書は年代が不明なものの多く、断片的であり、何らかの事情で紙の天地が裁たれていることなどもあって、難解なものもこれまた多い。それだけに、思わぬところから新資料を得られることもある。
 ところで、このような例は製紙法の進歩と印刷技術の発達した後の時代にもあった。戦時下の物資の乏しい時期となると、新聞をはじめ公用の用紙にいたるまで粗悪で小型化していった。それでも克明に記録を必要とするところでは一度使った紙を使用していた。とかく戦時下の資料は処分の対象となりやすく、時間的には近い時代ではありながら、資料面からは空白の部分が多い時期である。その意味でも、いわゆる裏文書として残されている資料は貴重なものといえよう。ともあれ、歴史上の新事実は、このような例の積み重ねによって見い出されるものである。


【2】「地方史」研究の旅

 今日では、「郷土史」ではなく「地方史」という呼び方が一般に使われている。
 かつて「郷土史」と呼ばれたものは偏狭な郷土愛やはては中央に出て立身出世した政治家達とのつながりや、その密度の度合にポイントをおいたお国自慢的なものであった。しかし、こうした「郷土史」を縁の下でささえていたのは、それぞれの村や町に住んでいた良心的な郷土史家の人々であったが、彼らも当時の隆盛であった皇国史観の影響を受けざるを得なかった。
 敗戦後、こうした苦い歴史的教訓を反省し、お国自慢的・非科学的・趣味的な「郷土史」ではなく、新しく実証的に事実関係を把握し、しかも客観的に表現された事柄の積み重ねを通じて「郷土史」を叙述しようとする気運が盛りあがり、「地方史」という地味でしかも客観性を帯びた名称が出現し定着した。
 「地方史」研究の旅の第一歩としてまず私達の祖先が連綿と生活の基盤を構築した場所である村を復原することとしよう。江戸時代の村は、現在の市や町の大字にあたる地域である。この村とは、田畑と集落がセットになって成立していたものである。しかし、こうした村はけっして牧歌的な自然村として存在したのではなく、幕府や藩や旗本などの支配者の年貢収納単位として確定されていた。つまり江戸時代の経済の根底を支える生産単位として位置付けられていた。これを年貢村請制(ねんぐむらうけせい)村落という。
 江戸時代にはこうした村が全国に6万3,562村(天保5年)あり、このなかには市川の44村がふくまれていた。


【1】埋もれる歴史資料

 どこの街にも郷土史家と自称する人が多い。自分たちの街の歴史にたくさんの人が興味をもっているということは、同じく歴史を勉強する者にとっても喜ばしい限りである。そういう人はとかく熱心である。調査するにしても足で一軒一軒隈なくあたり、どこの家にどのような資料があるかということを誰よりもよく知っている。この情熱にはほんとうに頭がさがるおもいがする。
 ところが自称郷土史家は、重要な資料があったとしてもなかなか発表しない。むしろ、自分だけが知っている楽しみを味わっているようだ。
 それだけであればまだましな方である。中には資料収集を専門とし、収集したものについては門外不出にして喜びをひそかにかみしめている人がいる。これは絶対許せない行為だ。
 しかし、こういう人が意外に多いのには驚かされる。多ければ多いほどその街の歴史を究明するために、どれほど大きな損失をまねいているか、はかり知れない。利己主義的な郷土史家から、脱皮することをせつに望む。
 市川市史が発刊されてすでに久しい。一流の編集・執筆陣、内容的にも他の市町村では例をみない。全国的に高く評価されていることはうなずける。しかし、このようなすぐれた市史にさえ、すべて市川の歴史が網羅されているわけではない。まだまだ埋もれている資料が多数あるものと考えられる。これからの私たちは、それらの資料をできるだけ多く発掘し、個々の資料を正しく評価して、より深い歴史の究明に心がけなければならない。その一弾として中世以降の市川について次号から執筆していきたい。