昭和28年9月(2号)


【表面】

菅田良岳先生御逝去

 恩師、菅田良岳先生には、心臓喘息の為、8月下旬より病床に就かれましたが、9月に入り病状急変し、御家族及び学校関係者の看病も空しく、9月13日午前1時54分御逝去になりました。
 朝日新聞(9月15日朝刊)にて既に御案内の如く、市川学園講堂に於いて9月15日午後2時より、関係者多数参列のもとに、学校葬が盛大に営まれ、先生の霊に哀悼の意を表しました。
 尚菩提寺は松戸市泉龍寺(松戸警察署前)
 御遺族住所は 市川市新田135番地


【裏面】

菅田先生をおもう

学園長 古賀米吉    

 教育は菅田先生の、生涯にわたってのたった一つの仕事であり、たった一つの趣味でもあった。病篤く意識もうろうとなってからの十日間、するこということが悉く教室でのことであった。先生ほど教育に打込み、先生ほど生徒を思い続けた人を、私は知らない。
 市川学園は創立当初、不測の事件のため、吾々人知れぬ難儀をした。先生は校外では小学校を訪問したりポスターを貼ったりして夕暮の街を歩き巡り、校内では生徒の教育に情熱をかたむけて余念なかった。そして着々築き上げた学園なのだ。だからこそ、あおの寡黙謙譲の先生も、学園のことになると、時として手放しの自慢をしたのも無理はない。
 菅田先生は私より6つ年下である。私は度々病気をしたが先生は昨年の正月まで、殆んど病気というほどの病気をしていない。時に浅酌戯れて、校長死なば葬儀委員長はおれだなどと云った。逆縁、先生は私にその骨を拾わせ弔辞を読ませた。これこそは先生が私に犯したたった一つの不信である。私は今急に年をとった感じである。


創立まもない頃の職員室(左から2人目が古賀校長、次が菅田先生)

菅田先生遺児教育資金募集について

 菅田先生は昭和12年4月市川学園の開校とともに教論として着任、爾来17年間、学園発展のために献身的努力を続けられまして母校は今日の隆盛を見るに至りました。又一方、先生の教育に対する熱誠と溢るるが如き愛情とは生徒の敬意の的であり、卒業後も長く忘れ得ざるところであります。かかる恩師も今回図らずも失いましたことは痛憤に堪えない次第でございます。
 然るに教育は天職とは申しながら、経済的面に於ては余り恵まれているとは申し難いのでございます。先生も赤御同様でありまして、今夫人の外御子女三人を遺されましたが、殊に嗣子岳夫君は市川高等学校2年在学中で将来大学を卒業し実社会に立つまでに尚5、6年を要しますので、それまでの学費資金を援助することが尤も先生の霊を慰める所以と存ぜられます。これにつきましては学校法人の理事長、PTA等の賛同も得ましたが同窓生諸君に於かれましても、何卒御賛成下され左記要項により御醸金下さいます様御願い申し上げます。

昭和28年9月  市川学園同窓会

会員各位