同窓会便より 第8号 1983.11.1


 ご挨拶

同窓会会長 山本 幸雄    

 古賀先生が亡くなられ、6月29日市川、船橋合同学園葬が行われましてから、早2ヵ月余が経過しようとしています。更めて同窓一同御冥福をお祈り申し上げたいと存じます。亦その節有志諸兄の並々ならぬ御助力を賜り、葬儀に際しましては多数の御参列下さいまして、真に有難うございました。厚く御礼申し上げます。
 昨年が丁度創立45周年に当り記念事業を計画し実行する予定でしたが、6月には古賀先生が入院なされました。名誉会長である古賀先生が元気なお姿で出席出来ないのなら今年度は残念乍ら見送り、来年先生の御退院、病気全快をまって実施することとし、一応名簿の発行のみといたしました。そのような事情で1年遅れの今秋には先生の御出席を得、盛大に取り行う予定でしたが、先生の突然の御逝去により中止せざるを得なくなり、50周年まで延期することとなりました。
 この同窓会便りも10年前までは時々発行しておりましたが、この所すっかり御無沙汰致しております。真に申し訳ありません。今後は成るべく学園、同窓会の近況などを出来るだけ早い時点でお届けしたいのですが、予算その他の都合がありまして、年1回か2回の発行を予定しております。どしどし御投稿下さい。
 最後に諸兄の健康と健闘をお祈りし、同窓会への一層の御協力をお願いいたします。


テーブルマナーを学んだりライブも行われたかつての食堂


 同窓会名誉会長の推挙されて

学校長 藤崎 慶治    

 うららかな秋晴れの季節となりました。
 同窓会会員の皆様にはご健勝にてお過ごしのこととお慶び申し上げます。
 2万名を越す同窓生の皆様にはそれぞれの分野でご活躍、まことにご同慶の至りと存じ上げます。
 去る6月8、9日の通夜、密葬、さらに29日の学園葬と続いた、故古賀米吉先生の一連の葬儀には御繁忙中にもかかわらず多数の御参列をいただき、厚くお礼申し上げます。
 顧みれば先生は「教育は私学が本道である」と本学園を創立、開校したのが昭和12年、爾来46年終始一貫、全身全霊を捧げて、「教育一筋」の道を歩んで来られ、幾多の変遷の中で風雪に耐え、気概と信念をもって建学の精神を貫いてこられました。
 私は後継者として、古賀先生の建学の精神を継承し、教育理念を貫き、学園の発展充実に微力を捧げ、皆様の御期待に添う所存でございます。
 皆様の旧に変わらぬ御支援、御協力をお願い致します。


 市川学園理事長に就任して

理事長 古賀 正一    

 この度亡き父を学園葬をもっておおくりいただき、多数の同窓生の皆様にもご参列いただき心からお礼申し上げます。故人もさぞかし皆様のご厚情に感謝していることと存じます。93歳の生涯は文字通り教育の道一筋であり、学園のことをひとときも忘れず、最後まで私学教育に情熱を燃やしつづけておりました。大病を何度ものりこえられましたのも、故人の生きる執念と共に、皆様方のご激励のお陰と心から感謝しております。77日、100ヶ月が過ぎた今日この頃、天寿とは云えさびしさのつのる思いであります。
 さて密葬後の緊急理事会に於て理事の皆様のご推挙をうけ、新しく理事長に就任いたすことになりました。大変微力ではありますが、故人の遺志をつぎ、全力を尽す所存であります。故人の教育理念の最も正しい理解者であり、継承者である藤崎新校長を中心に一致団結、学園の教育は微動だにしておりません。理事団も学園の新たな発展に努力致す所存ですので、同窓生の皆様のご支援を心からお願い致します。
 コンピュータを中心をする情報化時代と云われる今日こそ、一人一人の人間が、人間らしく個性豊かにその能力を十分に発揮し、生きがいをもって生きることが大切であります。故人の主張した一人一人をよくみる「人間教育」こそ、今後ますます重要であり、本学園の教育方針が一層世の中に評価される時代と思っております。
 かつて故人が「学園の最も大切な財産は、校舎でもなければ土地でもない。それは教師と卒業生である。卒業生こそが学園の看板であり生きた広告である」、と熱っぽく語っていたのを思い出します。同窓生の皆様の活躍こそが、学園の評価と発展に結びつくものであります。
 最後に同窓会の発展と、皆様のご健康を心からお祈りしご挨拶と致します。


【故 古賀米吉先生略歴】
生没
明治24年3月22日 福岡県三井郡三国村大字力武に生る
昭和58年6月7日 市川市八幡5―13―2にて死去。肝硬変。92歳3ヶ月。真教院殿彰徳吉道大居士
学歴
明治44年 福岡県立嘉穂中学校卒業
大正4年 福岡県師範学校卒業
大正11年 東京外国語学校英語部卒業
昭和5年 東京帝国大学文学部社会科卒業
昭和6年〜8年 ロンドン大学留学 社会学専攻
教職歴
大正4年〜7年 福岡県・東京府にて小学校訓導
大正13年〜昭和6年 東京府立第四中学校教諭
昭和12年 市川中学校教諭
昭和13年 市川中学校長 市川学園理事
昭和18年 船橋高等女学校長
昭和20年 船橋学園監事
昭和26年 市川高等学校校長兼市川中学校長、市川学園理事
昭和27年 船橋学園女子高等学校長兼女子中学校長 船橋学園理事
昭和28年 船橋学園幼稚園長
昭和29年 市川学園幼稚園教員養成所所長
昭和30年 市川学園理事長
昭和32年 船橋学園理事長
昭和33年 市川学園英語学校長
昭和33年 市川学園八千代台幼稚園長
昭和40年 市川学園第二幼稚園長
私学振興歴
昭和27年 千葉県私立学校審議会委員
昭和31年 千葉県私立中学高等学校協会長(2期)
昭和31年 千葉県私学団体連合会長(2期)
昭和40年 千葉県私立学校教職員退職金財団理事長
昭和10年 千葉県私学振興会理事
社会事業歴
昭和24年 市川市社会教育委員
昭和26年 市川善行会長
昭和35年 市川市社会教育委員長
昭和39年 江戸川を守る会会長
栄誉歴
昭和35年 千葉県知事表彰(私立学校教育功労)
昭和37年 藍綬褒章(私学発展功労)
昭和40年 勲四等瑞宝章(私学振興功労)
昭和52年 千葉県環境賞(環境保全功労)
昭和58年 従五位勲四等旭日小綬章(多年私立学校発展功労)

古賀先生愛誦の詩文
先生はお仕事の構想や心構えを和歌や俳句に托して言われるのがお好きであった。自分はこう思うと言い切らずに、それを他人のことばによって表すのが先生の流儀であった。教養人としてのゆかしいたしなみと言えようか。
その三四を抄記する。多感の青年時代に先生の琴線に触れ、長い御生涯にわたって御心中を去来したであろう作品である。
   快くわれに働く仕事あれ
       それをしとげて死なむと思ふ   啄木
   劫初より造り営む殿堂に
       われも黄金の釘ひとつ打つ    晶子
   よくみればなずな花さく垣根かな     芭蕉
   君子相而不同―君子和して同せず     論語
石川啄木の歌の心は先生のお心構えであった。与謝野晶子が文学の世界に樹立した仕事を、先生は学園の教育営為や社会事業に完遂された。それをしとげて逝去された。生徒の個性を、人々の特長をよく見て伸ばしてゆくTよく見れば精神Uは、先生の衣鉢をつぐ後継者たちによって、永遠に伸びてゆくであろう。そうして、なずなにはなずなの本分がある。独自無雙のその持ち味を発揮し、いやしくも他人に付和雷同すべきでない。和を重んじながらも、かりそめの妥協はしない。不同。わが道を行く。先生のきびしさの一面がここから出てくる。図書館前に静かに鎮まっているT不同石Uは、そう語りかけている。