同窓会便より  第2号 1962.11.1


特集 恩師と同窓会員による市川学園25年史

 第1年目

学校長  古賀 米吉    

 あてにしていたこがはずれて、校舎が建たない。昭和12年、第1回の応募者は、それでも40名を越えてと思うが、何分にも、口頭試問を今の柔道場の隣りの物置でやったような次第で、とど4月15日に入学したのは32名であった。やがて75坪3教室の校舎ができあがり、とっかかりの第1室が職員室事務室、中央の室が物置、奥を教室に使った。この1棟は12回移築されたが、結局東館として残り、今回の大改築でとりこわされるまで、永い間役に立った。
 当初の先生はというと、早大英文出身の松田先生が英語を、早大哲学出身の菅田先生(元来英語の先生)が数学と理科を、立正大学出身の豊山先生が歴史地理を、陸士出身の三平先生が体操を、私は修身と国語を受持った。
 夏休みに三平先生が応召されてからは、体操も私が受持ったように覚えている。
 弁当を生徒と一緒にたべることが多かったが、そんな時、よくおかずの交換をした。私の弁当には、梅干が一つ必ずといってよいくらい入れてあったが、それを度々とられたものであった。叱ることよりも、笑うことのほうが多い学校だった。


昭和40年頃の本八幡駅


 母校と同窓と

副校長 安田 裕    

 いくつになっても自分の出た学校への愛着は強いものです。その中でも中学や高校時代の思い出は一段と深いものと言われています。
 考えて見ると、人間がどうやら知性的にも目覚め、曲がりなりにも自主的に行動する体制が次第に確立してくるようになると、物の見方や考え方にも自分なりのものが生まれてくるし、人間同志の関係も可なり強い絆でいつの間にやらつながれて行くという具合に、少年から青年へ達して行く人生の一番変化の激しい年代でありましょう。
 それだけに、こうした時期に縁あって学校を同じくし、同じような経験を共にしたという偶然性は、それも単なる一時の偶然事としてでなく、心にも体にも染み着いて一生つきまとって行くことになるようです。
 従て、この時代の「仲間」に対する愛着とか親近感というものは母校に対する思い出と共に強く生きて行くばかりでなく、自分の心の大きな支えともなって、どんな苦難の時にも自分を励まし慰めてくれる力強い拠り所となっているものと見えます。
 この時代のこうした人間関係というものは、恐らくこの母校を出てから後造られて行く色々の人間関係のいはば先駆をなすものでしょう。それぞれに違った職域の社会人として活躍していられる方々も、在学中には考えても見なかった方面に進まれた方も多いことと思います。かっては毎日楽しい条件で生活を共にした人達が、東に西にと散りぢりに別れてしまい、その後それぞれに想像に絶するような艱難辛苦を経て色々多彩な社会活動をするようになってくると、人間誰しも昔を偲び、自分の苦労話しを聞いてもらったり、成功を喜んでもらったりすることの出来るのは、やはりこの人達にということになるのもまことに自然の情と思われます。
 母校というものがアルマ・メータという言葉の持つ意味だけでなしに、人間が童心に帰り、裸になって何でもざっくばらんに気安く縋りついて行ける心のふるさととでも言えるものであるように、学校時代に培われた友情、仲間同志の感情というものは拭っても拭い切れないものでもありましょう。ここに、仮に、母校というものを持たぬ人、又それを感じ得ぬ人があったとしたら、人生は何と索漠たる味気ないものでありましょう。
 母校とそれを取り巻く友垣の感情こそは幾つになっても楽しいもの、懐かしいものです。それあるが故に学校の教師も日常の仕事に生き甲斐を感じて行けるのだと思います。
 どうぞ、会員の皆さんが、いつ、どこでも胸を張って「わが母校」を語り、又誇って行けるような学園、又いつでも気軽に足を向けて「わが母校」訪れることの出来るような親しみ深い学園でありますように相共に念願し、又相携えてこの発展繁栄のために努力して参りたいものであります。


 新会長・副会長紹介

 永らく懸案になっていました「同窓会員より会長・副会長を選出する件」は、去る9月2日の総会で、次の通り決定いたしました。

会長 山本 幸雄氏
 第1回卒業。江東区大島町6丁目で歯科医を開業。母校の諸行事には今までも、同窓会を代表して度々御出席下さいました。母校25年の歩みを、卒業生として、一喜一憂されて来ました。

副会長 玉置 勉氏

 第4回卒業。内科、小児科の玉置先生として小岩で有名な人。毎年、同期の竹本和夫氏と共に後輩の身体検査に来校。恩師林昭先生、旧友富沢隆也氏と、巧みな語術旧友を温められる。